Title: 羹 (Atsumono)

Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki)

Language: Japanese

Character set encoding: UTF-8

Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.

あつもの

谷崎潤一郎

汽車は沼津を出てから、だんだんと海に遠ざかつて、爪先上りの裾野の高原を進んで行くらしかつた。八月の眞晝の日光が、濃い藍色に晴れた空から眞直に射下して、折々一寸二寸ぐらゐづゝ、窓枠の緣を燒附けて居た。

橘は此の暑いのに一高の小倉の制服をきちんと着込んで、乘客の疎らな二等室の片隅に腰を掛けて居た。彼の向ひ側には十七八の藝者らしい女と、其のねえさん株か、乃至ないしは待合の女將かと推測される四十近い婦人が、俥の膝懸を臀に敷いて、双方から凭れかゝるやうにしどけなく坐りながら、富士山の頂上を眺めつゝ、何かひそ〳〵と語り合つて居た。車の動搖するままに、柔かいびろうどの蒲團が馬の背の如く躍り上ると、肉附の好い藝者の體はしなやかに揉まれて、房々とした髮の毛まで、鳥が呼吸をするやうに、ふわり、ふわりと顫へて見える。

豐川稻荷へでもお參りに行つた歸りであらう。豐橋、濱松、辨天島あたりの旅館のレツテルを貼つた荷物やら土產みやげやらが、椅子の下にも棚の上にも澤山載せてあつた。若い方のが、足許のお茶の土瓶を取り上げて、

「姐さん、歸るまでつでせうか。」

と云ひながら、蓋を開いて覗き込むと、

「大丈夫だとも、家へ持つて行けば屹度鳴き出すよ。」

かう云つて年寄も一緖に覗いて居る。土瓶の中には、大方河鹿かじかでも入つて居るらしい。

「若しか途中で死んぢやつたら、口惜くやしいわね。」

と、若い女はあどけない口元で笑つて居る。

一二時間の後、国府津こふづの停車場へ着いてから、東京までひそかに自分と同乘する筈の美代子が入つて來たら、此の女逹はどんな眼つきをするだらう。さう考へると、橘は面白いやうな、恐ろしいやうな氣持がした。學生としては贅澤な二等室を選んだのも、美代子の便利をおもんばかつた爲めであるのに、かう云ふ女と乘り合はせては、却つて肩身の狹い思ひをしなければならない。あの愼ましやかな、お孃さん育ちの美代子の事だから、氣の毒な程小さくなつて、自分の側へひつそりと身を倚せかけはしないだらうか。

其の時のいぢらしい姿を想ふと、彼は又抑へ切れぬ樂しさと歡ばしさに襲はれた。六月の末、沼津へ行き掛けに箱根を訪れて、病み上げの杖に縋りながら、美代子と一緖に大涌谷を見物したのは、もう二た月ばかり前になる。一旦生命いのち迄もられようとした病ひの痕を癒やすべく、それから每日々々千本松原の汐風に體を鍛へて、面變りのする程眞黑に肥太つた現在の樣子を見せたらば、どんなに美代子は嬉しがるだらう。初戀の人と唯二人、生まれて始めて汽車旅行を試みる今日の機會に、何もそれ程世間を憚る必要はあるまい。美代子に對する自分の感情が純潔である以上、少しもやましくない證據に、自分は殊更學校の制服を纏つたのではないか。………彼はかう度胸どきようを据ゑて、勇躍するやうに窓際へ立ち上つた。

戶外おもてには涼しい風がぱた〳〵と鳴つてつばの廣い麥藁帽子を飛ばさんばかりに、吹き通して居た。彼は襟頸に滲み出た汗の一時乾き切るやうな心地よさを味はひながら、窓枠に兩肘を衝いて、沿道の景色を眺め入つた。

いつの間にか汽車は御殿場近くの山麓をどん〳〵走つて居る。冲天ちゆうてんに輝く太陽の威力を眞向に浴びて、赭色の山肌をあらはにして居る裸體の富士の、ひろ〴〵と擴げた裳裾の上には、箱庭のやうな森や人家が點々と連なつて、見て居る中に後の方へ辷つて行く。足柄箱根の山の肩が、次第々々に近く高く右の方から突出て來る。時々四角な田や畑が、前の方から線路の傍へ跳び込んで來て、忽ちいびつな菱形に歪みながら、遙かに遠く押し流される。左に見えた愛鷹山あしたかやまの靑い背中が、だん〳〵と富士の裏側へ駈込むやうに隱れて了ふ。

何と云ふ愉快な景色であらう。………何と云ふ愉快な日であらう。………彼は今日程此の邊の風光を美しく、面白く眺めたことはなかつた。瞳に映る山川草木が、悉く自分の仕合せな身の上を祝福して、へつらつて居るかのやうに感ぜられた。戀と健康との喜びが、しんずゐまで浸み徹して、凡ての物を彼の眼前に輝かせてくれるのであつた。彼は戀人の容貌を見、戀人の聲を聞くのと同じやうな樂しい心地で山々の姿に見惚れ、裾野の風に耳を傾けた。

早く、一刻も早く國府津まで飛んで行きたかつた。もう何時間………もう何分………かう思つて彼は待遠しさうにポツケツトから時計を抽き出したり、焦れツたさうに足踏みをしつゝ口笛を鳴らしたりした。其の間も、急速力の汽車は絕ゆる隙なく距離を縮めて、國境の山のかひを傳はつて居た。兩側から地勢の迫るに隨ひ、曠漠たる裾野の末は小さく狹まれて、岡や林が眼近く立並ぶやうになつた。遠くに聳えて居た一つの峰が二つに割れて、幽邃いうすゐな谷を開いて迎へたり、雜草の底に囁いて居た溪流が、やがて白い泡の巌を嚙む河床を現したり、斷崖の角を曲る度每に、一つ一つ新しい山懷やまふところが右に左に展けて行つた。どうかすると靑空が高く隱れて、牢獄のやうな絕壁の石垣ばかりが、つい窓際に長く長く續いた。其れが盡きると、ぱつと眼界が明るくなつて、山勢が遠く遠く退き、尾上をのへの木々の繁みの中から、細い瀧がちらちらと落ちたりした。

隣の一等室のドーアを開けて、十三四のボーイが急ぎ足で入つて來た。さうして、スヰツチを捻つて室内の電燈をつけると、今度はばたりばたりと片ツ端から窓硝子を締め始めた。

「ボーイさん、トンネルなの?」

後向きに俯むいて居た若い藝者が、重さうな額を擡げて訊いた。

「えゝ、もう直きでございます。」

「さう、トンネルは幾つあつて?」

「八つございます。」

行儀よく直立して、かう答へた後、ボーイはつか〳〵と次の車室へ步み去つた。

「あゝ。」

と、輕い溜息をして、藝者はハンケチを蟀谷こめかみへあてながら、倒れるやうに臥轉ねころぶと等しく、眞白な空氣枕へ銀杏返いちやうがへしの頭を載せた。

間もなく、ガラガラガラと凄じい音響の底へ引き入れられると、欄間から白いけむりが朦々と舞ひ込んで、黃色い鈍いともしびの光が、蒸し暑い部屋の中に濁り漂つた。汽車は暫く八つのトンネルを出つ入りつした。

「此のトンネルさへ越して了へば、國府津はすぐだ。」

と彼は思つた。覺えのある派手な琥珀の日傘をさしてプラツトホームに彳んで居る美代子のおもかげが、彼にはもう見えるやうな氣持がした。

小山を過ぎてから、野と海とが再び近づき始めた。戀人の生れ故郷の相模の國、なつかしい相模の國の、はるばると續いた平原の果には、水蒸氣の濃いもやが、金色こんじきの光に燃えて打ち煙つて居た。ところ〴〵に波うつ丘陵の靑葉の匂や、大空の雲の勢や、紫がゝつた遠山の風情ふぜいまで、悉く親しみ深い相模野の景色であつた。酒匂川の鐵橋を渡る時、足の下にはさも涼しさうな水が笑つて、橋杭のぐるりに渦を卷きながら流れて行つた。其の水の注ぎ落ちる川下の濱の方には、ざぶん、ざぶんと相模灘さがみなだの怒濤の崩れる音が聞えて、飛沫しぶきの末が灰のやうに舞ひ上つた。

汽車は次第に速力を弛めて、徐かに停車場の構内へ馳せ入つた。

「國府津。………國府津。」

二三人の驛夫がこつこつ﹅﹅﹅﹅と靴を鳴らして通つた後から、乘り降りの客が忙しげにプラツトホームへ下駄を引き擦つて步いて居た。箱根歸りの一隊らしい五六人の男女の群が、どや〳〵と景氣よく二等室へ跳び込むや否や、大聲で暑い暑いとこぼしながら、傍若ばうじやく無人ぶじんに扇を使つたり、ハンケチを振つたり、冗談を云ひ合つたり、忽ち車内は賑やかになつた。例の藝者も此の騷ぎにうたゝ寢の眼を覺まされて、後れ毛を搔きつゝ起き上つた。

待てども、待てども、美代子の姿は容易にブリツヂを下りて來なかつた。うちの首尾が惡くて拔け出す折がなかつたのか、それとも約束した時間を思ひ違へたのであらうか。今日は此の儘會へないで、東京へ歸らなければならないのか。そんな悲しい、口惜くちをしい成行なりゆきになつたらどうであらう。此の上彼は半時たりとも、戀人の顏を見ずには暮らせさうもなかつた。汽車はもう直き動き出すのに、子供のやうに泣き喚いても美代子は遂に來てくれないのか、さう考へると、彼は胸が塞がつて、不愉快な憂ひの雲に抑へられるやうな心地がした。

構内には最早や一人の客もなかつた。漸く西に傾いた日が、たゝき﹅﹅﹅の上をぢり〳〵と氣長に燒きつけて居るばかり、折々停車場の事務室の受信器がキチキチ鳴つて、海の方から潮の香の高いそよ風が、人の心も知らず顏に、差し伸べた彼の頰をなぶつて通つた。

がらん、がらん、と五分鈴が響き渡つた時、橘は戶外のきらきら﹅﹅﹅﹅した往來に、クリーム色のパラソルが胡蝶のやうにひらめいて、あわたゞしく機内へ躍り込むのをちらり﹅﹅﹅と見た。突然彼は動悸が激しく血管を衝いて、肋骨あばらのあたりがひやり﹅﹅﹅とするやうな Shock を覺えた。手も足も唇も、不思議にわなわな﹅﹅﹅﹅戰いて、五體がおこりわづらつたやうにふるへた。

「お早く願ひます、お早く!」

けたゝましい催促の聲を浴びせかけられながら、美代子は千代田草履をぱく〳〵云はせて、橘の車室の前迄駈けて來たが、ふと氣が付いたやうに、

「あツ此處は二等なの? 買ひ直して來ようか知ら。」

かう云つて、赤い切符を帶の間から出した。

「もう時間がございませんから、其のまゝお乘りになつて宜しうございます。」

と、驛夫は後から彼の女を押し上げるやうにして扉を締めると、呼子を口にくはへてピーと吹いた。

「あゝせはしなかつた。あたし、わざ〳〵三等の切符を買つて來たのよ。」

かう囁いた時、美代子は乘客の視線が自分に集まつて居るのを悟つて、上氣した襟のあたりを耻かしさうにポウツとさせた。うすいお納戶なんど絽織ろおり單衣ひとへに、白つぽい紋紗もんしやの丸帶を締め、細い金の提灯ちやうちんぐさりを頸にかけた十七八の令孃姿に、男も女もぢろ〳〵とながしめを與へて、一擧一動にも眼を放さないやうであつた。

「もう少ウしで乘り遲れるところだつたね。」

かう云つた橘の聲は非常にふるへて唇のわなゝき﹅﹅﹅﹅が未だ止まらないらしかつた。待たされて待たされて、待たされ拔いて、散々思ひこがれて居た氣苦勞の半分だけでも、つぶさうつたへて見たかつたのに、咽喉がつかへて自由に舌が廻らなかつた。今日が日まで戀ひ慕つて居た女の容貌も、面とむかつては白粉おしろいの香や髮の匂に妨げられて、却つて想像の方がハツキリするやうに感ぜられた。樂しいのか、恐ろしいのか判らないくらゐ、彼の神經は興奮して居た。美代子に對する自分の戀が、此れほど命の底深く根ざして居る事を、彼は始めて知つたのであつた。我ながらいぶかしいやうな狼狽うろたへた態度を、女に窺はれるのが嬉しくも恥かしくもあつた。かう云ふ場合、女は案外男よりも落ち着いて口を利くことが出來た。

「宗ちやん、もう體はすツかり﹅﹅﹅﹅良くなつたの? また勉强を始めたら、惡くなりはしなくツて?」

二人は、乘客の視線を免れるやうに、二つの窓から頸を出して、顏をならべて居た。美代子の言葉は耳元を掠めて走る風の速さにさらはれて、かすかに後方へ消えて行つた。

「もう大丈夫だらう。」

快活に淡泊に、橘のかう答へた時、眼の前に塞がつてゐた綠樹が盡きて、陸地がだらだら﹅﹅﹅﹅と砂濱へ下り、太い高い磯馴松そなれまつの疎らな隙から海が光つた。そんな物にも、橘の心は刺戟された。

うちの工合はどうだツたい。」

と云ひながら、彼は思ひ切つて、風上の女の方へ頭を向けた。そして、煤煙に吹き附けられるのを躊躇ためらふかのやうに、わざと眼瞼を伏せて、睫毛を長くした。

「別にどうもしなくツてよ。ちよいと﹅﹅﹅﹅大磯のお友逹の所まで行くつもりで出て來たの。………おツ母さんが汽車はいつでもあるから髮を直してお出でなさいツて云ふもんだから、ことわる譯にも行かなくツて、あたし氣が氣ぢやなかつたわ。でも間に合つて好かつたわね。」

汽車の震動に妨げられまいと、美代子は心持ち調子を張つて、りん﹅﹅とした聲で云つた。ての髮が風に煽られて、橘の顏の方へ柔かさうにふわふわ﹅﹅﹅﹅と搖れて膨らんだ。いつしか血色が眞白に覺めて、唇の紅いのが殊に目立つて見える。

「それぢや東京へ行つても、今日ゆツくり出來ないんだね。」

「えゝ、新橋へ着いたら直ぐ歸るわ。かうやつて話をするのは、汽車の中だけよ。」

かうは云つたものゝ、男も女も、どんな話をしていゝか解らなかつた。二人共一緖に坐つて居るだけで十分であつた。話をする隙に、自分逹の現在の幸福をつくづく考へて、喜んで置きたかつた。

橘にせよ美代子にせよ、これまで未だお互に「愛」とか「戀」とか云ふ大膽なことばを口にも文にも出した事はなかつた。「是非一度會ひたい。」とか、「くれぐれも體を丈夫にしてくれろ。」とか、そんな言葉に戀慕の情の萬分の一を籠めて、相思の意味が通じ合ふものゝやうに滿足して居た。さすが女は角張らぬ言ひ廻しのうちに、心の底にはツきり﹅﹅﹅﹅と行き屆かせる優しみを持つて居たが、男には到底そんな婉曲ゑんきよくな眞似は出來なかつた。兎に角二人共、明かな事實を立派に意識して居て、尋常でない素振や行動を取りながら、今更其れを語り合ふ程の勇氣がなかつた。

「ほんとに宗ちやんは太つてね。もうめかただつて十二貫ぢやないでせう。」

美代子は汐風に染まつた男の手頸を眺めて、低く囁いた。

「十四貫八百目ある。」

「さう、そんなに殖えて?」

かう云つた女の眼つきには、喜びの色が溢れて見えた。

橘は、美代子の平生と打つて變つた活氣のある態度の原因を、滿更窮屈な家庭を逃げて來て、自由な戶外へ放り出された理由にばかり歸する譯には行かなかつた。女の身として、兩親を僞つてまでも一二時間の對面を樂しみに、一緖に道中をすると云ふ事が、自分に心を許して居る證據でもあり、機嫌の良い所以ゆゑんでもあらうと推した。

彼は小田原の美代子の家の事情を詳しく知つて居た。………美代子の父、淸助と云ふのは、商賣にかけてはなか〳〵拔け目のない代り、若い時分から放蕩の限りを盡して、二三人のめかけもある上に多勢の子をはらませ、其れがみんな一軒の家に同居して居た。さうして、正妻のお綱が、老い先の樂しみとするのは、正腹の娘の美代子一人であつた。

美代子が町の小學校を卒業した時、手許てもとから娘を放すのを拒んだが、淸助は東京の女學校へ入れると云つて聽かなかつた。

「だから女親ツて者は仕樣がない。お前のやうに下手ツ可愛がりはしないけれど、己れだつて娘は可愛いんだぜ。小田原と東京なら目と鼻の間だ、いつだツて歸つて來られるぢやないか。」

こんな理窟を云つて、遠緣の親類にあたる濱町の橘の家へ、とう〳〵美代子を預けてしまつた。其處から彼の女は虎の門へ每日通つた。其處から彼等の戀は始まつた。

相應に財產もある淸助の家督かとくを、誰に讓らせる積りであらうかと、お綱は始終夫の意中に惑ひ煩つた。たとへ男子にせよ、妾腹せふふくの者には決して家督を取らせたくはなかつた。そんな事があつたら、自分は娘を連れて分家でもするより外はない。かう云ふ意地張から、母は一層嚴しく美代子の監督に氣を配つて、東京へ出しても都會の惡風になづまぬやう、土曜日每に歸省を命じた。それから今年の卒業と同時に、早速國許へ引き取つて了つた。

溫厚な美代子は、東京に居ても國へ歸つても、母の身の上と自分の將來とが案じられて年中心がふさいて居た。お轉婆てんばぞろひ、腕白わんぱくぞろひの妾腹の兄弟逹の中に交つて、世間の人に後指うしろゆびをさゝれまい、便りに思ふ母の期待に背くまい。さう云ふ苦勞が積り積つて、いつとなく橘などに尋ねられると、愚痴をこぼすやうになつた。

「あたしおツ母さんを此處の家へ伴れて來て了ひたいわ。」

などゝ、濱町の家の二階で、橘に訴へることがあつた。彼の女は橘に對して、戀ひ慕つて居ると云ふよりも、もう少し眞面目な、實際的な考へを抱いて居た。

橘の顏を眺めて居る時だけ、美代子は自分を仕合せだと思ひ、自分の運命を必ずしも悲觀しなかつた。せめて此の人との會談だけは、氣を惹き立てゝ、世間の若い女に負けず、晴れやかな眉をも開き、朗かな調子で應答をもしようと努めた。けれども今日のやうな人ごみ﹅﹅の中に長い間膝を擦り寄せ、ろく〳〵言葉も交さずに項垂うなだれて居れば、果ては矢張りいろ〳〵の心配事が胸にもつれて、自然と頭がくらくなつた。國府津で乘り合はせた瞬間の感情の高潮が、彼等を沈默の幸福の裡に包んだのもつかであつた。程なく單調に飽きた二人は、重々しい氣分を一掃する爲めに、何か話題を捉へて見たかつたが、どんな小聲で喋舌つても隣の客に聞き取られるので、お互に一向はずま﹅﹅﹅なかつた。殊に女は停る度每に、乘り降りの人の樣子をそツ﹅﹅ぬすみ視て、知人に遇ふのを恐れて居た。

新橋へ着くと、美代子はホツとして、病人のやうな溜息をついた。橘は赤帽に行李を託して、女と並んで改札口を出ながら、

「美代ちやん、どうしよう。………ちよいと﹅﹅﹅﹅何處か、靜かな處へでも行かうか。」と云つた。

「さうね。」―――と、美代子は小型の金時計の蓋をパチンと撥ねて、―――「もう五時半ね。」

「それとも内證で、濱町まで來たらどうだい。」

橘はわざと女の躊躇ふ氣色を認めないやうに、重ねて訊いた。

「いけない、いけない。」

女は下を向いて、かぶりを振つて、

「………濱町へ知れても、家へ知れても惡いから、あたし此れから直ぐに歸るわ。ほんとに初めツからその積りなのよ。七時か八時までに必ず歸れツて云はれたのに、今直ぐ歸つたツて九時になるわ。」

男には女の決斷力の良いのが恨めしかつた。自分と美代子と地を換へたら、彼にはとてもそんな思ひ切りのいゝ仕打ちは、出來さうもなかつた。自分の思つて居る半分も女は自分を思つて居てはくれないのか、さう云ふ不平も挾まれた。けれども此の場合別れるなら別れるで、男は成るべく二人の幸福を傷つけるやうな言動を愼み、能ふ限り樂しい、快い感情を胸に盛上げて別れたかつた。どうしても自分は、天に感謝し、人に羨まれなければならないやうな境遇に置かれたものと信じたかつた。

「汽車の中ぢや、なんにも話が出來なかつたわね。こんな事になるくらゐなら、一層いつそ來ない方が宜かつたわ。」

と、美代子は瞳を潤ませて、苦しさうに口元でにツこり笑つた。男は其れでもう滿足した。

「東海道神戶行、………東海道神戶行。」

驛夫が鈴を鳴らしながら、叫んで通るのを聞くと、女は直ぐと氣を取り直して、

「それぢや此れへ乘つて行くわ。」

と、輕く頭を下げた。さうして、入場券を買ひに行かうとする橘を無理に制した。

「もうほんとに見送つて頂かなくツても澤山よ。誰かに見付かると大變だから、此處で失禮するわ。」

かう云つて、あわたゞしく立ち去らうとしたが、再び橘の前へ足を止めて、

「宗ちやん、ほんとにあたしを忘れないでね。」

と、改札口の雜沓に揉まれながら耳打ちをした。

やがて女の姿が、長い長いプラツトホームを駈けて行つて、列車の踏み臺をひらり﹅﹅﹅と跨いで室内へ消えて了ふまで、男は其處にぼんやり﹅﹅﹅﹅と彳んで居た。折角の手の裡の玉を奪られたやうな殘り惜しさがひしひし﹅﹅﹅﹅と胸にこたへて、どうしたら此の戀ひしさを抑へる事が出來ようかと、彼は暫く途方に暮れた。あゝまた會へるのは何時であらう、一週間立つたら會へるか、一と月立つたら會へるか、それとも半年か一年か、再び其の日の廻つて來るのは、遠い、覺束ないことのやうに感ぜられる。賑やかな東京の街の中央まんなかに住みながら、朝夕一念を小田原に馳せて、取り着く島もない淋しさ辛さを、幾日繰返さなければならないのであらう。………

彼は不承々々に赤帽から行李を受け取つて、濱町へ俥を走らせた。

「ほんとに妾を忘れないでね。」

かう云つた別れ際の言葉は、まだ彼の耳に響いて居た。其の時の美代子の輝いた眼つき、かすかな唇のをのゝき、其れを想ひ泛べると、悲しいながらも甘い慰藉を味はされた。「ほんとに妾を忘れないでね。」―――彼は此の文句を幾度も心に繰返して、鬼の首でも取つたやうに喜んだ。

「女が本當に自分を慕つてさへ居れば、近いうちに又會ふ機會も作れるであらう。日曜あたりに、此方から小田原へ出掛けて行つても、そんなに世間で怪しみはすまい。別段がツかり﹅﹅﹅﹅するに及ばぬ事だ。」

と彼は俥の上で考へ直した。さうして、息を深く吸つて、さも得意さうに木挽町の往來を彼方此方眺め廻した。可笑しなことには、俥がだん〳〵濱町へ近づくに隨ひ、憂鬱なさつきの氣分とは全く異つた得意の情がいよいよ增して、何も知らずに自分の歸りを待つて居る兩親に對してさへ、一種のプライドを抱くやうになつた。

橘の家は濱町三丁目の至極閑靜な新道にあつて、小ざつぱりした格子造りの二階建ての後に黑い艷のいい土藏の壁が、漆塗のやうに光つて見えた。元は或る舊派俳優の住居であつたのを五六年前父の宗兵衞が相場さうばてた頃、兜町の方をうるさがつて、又一つには伜の勉强の爲めを思つて此處を讓り受け、每朝運動に店まで徒步で通つて居た。父と母と一人息子の宗一と、三人の家族は小間使ひに飯炊の女を置いて、不自由もない代り、格別花やかな目にも遇はずに、地味な暮しを立てて居た。

「ほんとにうちあたりぢや、小間使一人あれば御飯炊ごはんたきなんぞらないんだけれど、勿體もつたいないことだ。」

母のお品はしよざい﹅﹅﹅﹅なさに困つて、折々かう云つたが、相當な仲買店のあるじの本宅であつて見れば、まさかさうする譯にも行かなかつた。美代子が厄介になつて居る時分でも、お品は用事が一つ殖えて有難いと云ふ風に、先へ立つて何くれと面倒を見た。

「美代ちやん、こんな事も覺えて置くもんだよ。」

かう云つて、たま﹅﹅には臺所の用を云ひ附けたり、來客の接待をさせたり、針仕事などを賴んだりした。美代子もお品にはよくなついて、「叔母さん、叔母さん」と大事にして、云ふ事を聞いた。

「あの娘はなか〳〵感心なところがある。」

と、お品は始終褒めて居た。

美代子が國へ引き取られてからのお品は、全く手持無沙汰であつた。夫と伜の着物の世話は人手を借りない上、日に三度も拭き掃除に念を入れて、其れでまだ暇があると、女中の髮を結つてやつたりする。昔は芝居道樂であつたが、此の頃はどうも頭が痛むと云つて、兜町連の切符を貰つても、大槪店の者か女中を遣つて了ふ。

「半四郞や高助が居た時分から見ると、此の節の芝居はほんと﹅﹅﹅につまらない。」

と、口癖のやうに云つた。いつであつたか、久し振に成田屋の追善劇つゐぜんげきへ誘はれて、歸つて來ると高麗藏こまざうの勸進帳を散々罵倒し、いろ〳〵と古い役者の評判をした揚句、

「さう云へば、せんに染五郞と云ふ役者があつたが、あれなんぞは屹度良くなつたらうに、今ぢやどうして居るだらうねえ。」

夫の宗兵衞も、家業柄がげふがらに似合はず品行方正で、實直な、義理堅い男であつた。一時芳町邊に妾を圍つて居るらしいと云ふ噂を立てられて、店の番頭だの小僧だのが、内々物好きに探索の步を進めたが、全くそんな形跡はなかつた。若い者が大好きで、

「どうだい、家へ來て一杯やらないかい。」

などゝ、時々店員を本宅へ招いては、一緖に酒を飮んで、別隔わけへだてなく冗談を云ひ合つたり、碁を鬪はせたりする。附き合ひの外はめつた﹅﹅﹅に茶屋入りをせず、いつも八時か九時頃迄には歸つて來て、晚飯に一本漬けさせながら、お品や宗一や女中を相手に、世間話をするのが例であつた。生來旅行を樂しみにして、たま〳〵日曜に祭日が續くと、土曜日の夜からかけて大阪、仙臺あたりへ遠走りをしたが、其れも忙しい體では、年に一度あるか無しであつた。

「己が今に歲を取つて隱居でもしたら、日本國中を旅行して步く。」

と、宗兵衞は云つて居た。

「おとツさんは、アレで若い時分にはなか〳〵道樂をしたものさ。」

と、お品は散々苦勞をさせられた昔の事を想ひ出して、宗一に話す折もあつた。今では宗兵衞は赤ら顏にでツぷり﹅﹅﹅﹅太つて、無骨ぶこつな體格をして居るものゝ、二十前後にはやせぎすの色の白い、役者のやうな美男で、隨分女に惚れられた方だと云ふ。

「宗ちやんも親父さん似で、好い顏だちだが、お父さんはどうしてれどころぢやなかつたよ。」

と、小田原の美代子の母などが、よく取沙汰とりざたをした。

宗兵衞の放蕩と來たら一時は可なり激しかつたものと見えて、いまだに一つ話が澤山殘つて居る。宗一の祖父にあたる人の葬式の歸りに施主せしゆの宗兵衞が雲隱れをして家内中の大騷ぎとなり、だん〳〵調べると當日會葬の列につらなつた贔屓ひいき幇間ほうかんそゝのかして押上の寺から眞直ぐに柳橋へ繰込み、茶屋の大廣間に陣取つて藝者を十何人も揚げて、ぐでん〳〵に醉拂ひながら、「すててこ」を踊つて居たなどは、最も氣拔な例である。

其の時、照降町の親戚の叔父が腹を立てゝ、

「貴樣のやうなばちあたりは、歸つて來ないでも差支さしつかへないから、勝手に何處へでも出てせろ。」

かう云つて、怒鳴り附けると、宗兵衞は靑くなつて恐れ入り、女房の前へ頭を下げて、漸く叔父にわびを入れて貰つたさうである。

又或る時は向島の水神すゐじんに三四日流連した末、我が家ながらも閾が高くて内へ歸れず、據所よんどころなしに「メンボクナイ、シヌ」と云ふ電報を打つたので、お品が驚いて駈け着けると、相變らず前後不覺に醉ひ倒れて、正體なく、「いやあ、いよ〳〵女房の御入來ごじゆらいか。」などゝ照れ隱しに蒲團の中から手ばかり出して、臥ながら踊つて居たさうである。

そんな鹽梅で親讓りの財產を遂には蕩盡たうじんして了つたが、お品が連れ添うてから十年目―――丁度宗兵衞の三十五の歲に始めて宗一を生んで以來、すつかり人間が改まつて、商賣を勵むやうになつた。さうして、先祖代々の質屋の店を疊んで、兜町の仲買へ番頭に住み込んでから、兎に角十五年程の間に今日の地步を占めるやうになつた。其れには勿論、お品の内助の功もあづかつて力があつた。

波瀾に富んだ半生の歷史を持つ宗兵衞夫婦は、目下もくかのところ、唯一人息子の將來に樂しみをしよくして、平隱無事な日を送つて居た。若しも宗一が生れなかつたら彼等は今頃どうなつて居るか解らなかつた。

「是非とも此の子を、立派な者にしなければならない。」

かう思つて、宗兵衞はまだかよ番頭ばんとうをして居る時分から、どんな工面くめんをしても、伜を大學までやらせる決心であつた。幸に伜は去年の春、中學を優等で卒業して、夏には首尾よく一高の一部へ入學したが、あんまり勉强の度が過ぎたのか、十一月の始めにとう〳〵肋膜ろくまくを病んで、茅ケ崎へ入院して了つた。成績が好ければ好いで、矢張り心配は絕えないものと、夫婦は其の當座氣が氣でなかつた。それでも宗一は運よく今年の四月に退院が出來て、人の止めるのも聞かずに六月の試驗を受け、一學期の大半と二學期を休んで居るにも拘らず、辛うじて二年へ進級させて貰つたのである。

一人息子と云へば、大抵人困らせの我儘者が多いのに、宗一は物心の付いた頃から、未だ嘗て兩親の仕打ちに不滿を抱いたことはなかつた。「さすが苦勞をしたゞけあつて、のくらゐ道理の解つた、行き屆いた人逹はない。」とか、「よくもあんな似合の夫婦が揃つたものだ。」とか、世間に噂をされる通り父も母も珍しく感心な、氣だての好い人々であると思つて居た。こんな結構な二た親に對して、彼は不孝をしたくも出來なかつた。

宗一が中學の五年生になつた時分から、父は全然放任主義を取つて、

「美代ちやんは人の預り物だから仕方がないが、お前はもう萬事自分勝手にやつて見るがいゝ。己逹の若い時と違つて、今の人間は立派な敎育を受けて居るのだから、馬鹿でさへなけりや、何をしたつて大丈夫だ。」

かう云つて、毫末がうまつも干渉がましい眞似はしなかつた。本道樂の結果比較的多額の小遣ひを費消しようが、友逹と一緖に夜遊びをして遲くならうが、父は伜を十分に信じて疑はなかつた。此の信用だけでも、宗一は眞に感謝すべきで、後暗い行爲があつては濟まない筈であつた。

美代子と宗一とが戀をするやうになつたのも、もともと此の放任主義のお蔭であつた。若い男女を一軒の家に置きながら、宗兵衞は一向無頓着で何の心づかひもしないのみか、「宵に女を一人で出すのは惡い。」と云つて、水天宮の緣日などへ美代子の外出する折には、必ず宗一を附けてやつた。内氣な美代子は、學校朋輩の少いところから、自然宗一を賴みにして、最初は極めて罪のない交際を續けて居た。彼等が知らず識らず、自分逹の周圍へ愛情の垣根をめぐらして了つた事を自覺したのは、茅ケ崎と東京と、別れ別れに日を送るやうになつてからであつた。

「己は美代子を戀して居るのではあるまいか。若しやかう云ふ狀態が、『戀』と云ふものではあるまいか。」と、宗一は南湖院の病室の寢臺に据ゑられながら、始めて容易ならぬ關係を悟つた。美代子も宗一が茅ケ崎へ行つてから、急に濱町の家が淋しく感ぜられて、やゝもすれば學校の仕事が手に就かず、ぼんやり﹅﹅﹅﹅と考へ込むやうになつた。

「美代ちやん、此の頃はさつぱり﹅﹅﹅﹅元氣がないぢやないか。」

かう云つて心配してくれるお品の素振さへ、何となくあいそ﹅﹅﹅がなくて、あれほど懷しかつた「叔母さん」が、今更赤の他人のやうに恨めしくなつた。小田原へ歸省するついでに茅ケ崎を訪ねようとしても、土曜日曜には大槪かはる迭る見舞に行く宗兵衞夫婦の思はくを兼ねて、さう足繁くも立ち寄れなかつた。

いよ〳〵宗一が退院して、試驗勉强に取りかゝる爲めに東京へ戾つて來ると、美代子は旣に女學校を卒業して、國許へ歸つて居た。それから六月の末、沼津へ行きがけに、殆んど半年ぶりで宗一が小田原を訪づれた時には、二人共もう昔のやうに無邪氣ではなかつた。一と言交はす度每に深い溜息をして、戀の炎が瞳の色に溢れ輝いて居た。

親父の寛大を好い事にして、ひそかに女と手を握る。―――世間の口に云はせたら、如何にも不都合な行爲であらう。しかし宗一としては、良心の苛責に對して、一應辯解の辭を持つて居た。萬一父に知れた時分に、彼は些かの躊躇なく、「私は美代子を戀して居ります。」と立派に答へ得るだけの、覺悟はついて居た。自分と美代子との間に、節操の純潔が保たれて居る以上、天地に恥づる所はない。唯つまらない誤解や心配を避ける爲めに、自ら進んで發表する必要がないだけである。と、さう云ふ風に考へたかつた。

新橋で美代子と別れて、二た月ぶりに家へ歸つた晚のこと、宗一は平生の無口に似ず、得々として肉の附いた兩腕を捲くりながら、兩親と一緖に夕飯の膳を圍んで、いろ〳〵の物語をした。

「どうです、大分太つたでせう。一と夏の間に二貫目も體量が殖えたんだから、此れで少しは人間らしくなつたでせう。」

かう云つて、彼はわざ〳〵喰ひかけの茶碗と箸を置いて、ぴた〳〵と胸板を叩いて見せた。

「ほんとに私も、さつき見た時にさう思つたよ。もう肋骨あばらぼねが隱れて了つたやうぢやないか。………何しろしかし眞黑になつたもんだね。」

と、母は團扇で自分と宗兵衞とを等分に煽ぎながら、感心したやうに云つた。

「これで一時はもつと黑かつたんですよ。背中の皮なんざ、きれいにけて了ひましたからね。」

「海水浴へ行くと、みんな、穢らしく背中の皮が剝けるものなんだね。アレで體が丈夫になるんだと云ふが、お前なんざ、全く海が利いたんだよ。―――此れからあんまり馬鹿な勉强をして、體を壞さないやうにおしなさいよ。」

母はまだ安心が出來ないと見えて、こんな事を云つた。

「宗一に比べると、己の方が餘程太つてるな。大槪な人は夏痩せをすると云ふが、己は夏になるとます〳〵太る。」

と、宗兵衞は緣側の柱に凭れて兩肌を脫ぎ、むく〳〵と膨れた腹の上の、へそのあたりを俯向いて眺めた。さうしてひややつこ﹅﹅﹅を肴にちびり〳〵と杯を乾して、涼しい風の吹き入れる庭先の松葉牡丹の鉢をいぢくりながら、大好きな旅行の話を始めた。

「沼津と云ふところは鰻のうまい所だな。己が五六年前に行つた時に、何でも川ツ緣の角にある鰻屋へ上つたが、田舎にしてはなかなか旨いと思つたつけ。」

「あゝ、彼處に鰻屋がありますね。あの川の橋のところは景色がいいんで、私も度々行きました。」

「沼津は海岸よりも却つてあの邊の街の方が面白いぢやないか。空が如何にも靑々として居て、まるで廣重の五十三次の繪を見るやうだ。先づ東海道では彼處邊が一番だな。」

「へえ、そんなに好い景色なの。」と、お品は夫と伜の顏を見廻して、相槌を打つたが、宗兵衞はそんな事に頓着なく、夢中になつて話を續けた。

「あの千本松原で、六代御前が賴朝の使に首を切られさうになつたのを、文覺もんがく上人しやうにんが命乞ひに駈け着けたといふんだ。あんな所で殺されたら、死ぬにしても好い氣持だらう。たしか高山樗牛と云ふ文學博士の墓も、江尻か何處かにあつたぢやないか。」

「えゝ」と云つて、宗一はちよいと意外の感に打たれた。六代は兎に角として、父が高山樗牛を知つて居るのは可笑しいと思つた。

「六代御前と云ふのは誰のこと?」

と、お品は團扇の手を止めて、宗兵衞の方を向いた。

「六代と云ふのは、たひらの維盛これもりきやうの子供よ。義太夫の『鮓屋すしや』の文句にあるだらう、『内侍は高野の文覺に、六代が事賴まれよ。』ツてえのれのことだ。淨瑠璃じやうるりと云ふものも、滿更嘘は書かなかつたんだな。」

「『伊賀越』の『沼津』と云ふのも、彼處の事なんでせう。」

汽車が嫌ひで、生れてから一寸も東京の地を離れないお品は、旅行談になるといつも手持無沙汰で困る代りに、芝居の事なら一番の物識であつた。

「『伊賀越』なんぞは、ありやお前、みんな作り事に決まつて居るさ。」

かう云つて、宗兵衞は二本目の銚子を倒に搾つて、

「一膳輕くつけて貰はうか。」

と、右の手の太い指で、伏せてある茶碗の絲尻いとじりをつまんだ。母はお櫃を引き寄せて飯を盛りながら、

「さう云へばお前、歸りに小田原へ寄つたのかい。」

と宗一に訊いた。

「いゝえ。」

と、云つて、宗一はこはい物にでも追ひかけられるやうに身を起して、二階の書齋へ上つて行つた。

其の晚から、宗一は成る可く兩親の傍へ寄つて長話をしないやうにした。何か尋ねられるとしひて機嫌の好い聲を出して快活な返答をしながら、其の癖間に一枚物が挾まつて居るやうで心から親しみ深い、馴れ〳〵しい態度にはなれなかつた。さうして、晝間は書齋で本を讀んだり、うたゝ寢をしたりして、夜になればぶらりと人形町へ散步に出掛けた。

彼は今年ぐらゐ、住み馴れた東京の夏の夜の、美しさをしみ〴〵味はつた事はなかつた。自分の生れた長谷川町蠣殻町界隈の灯の街―――殊に緣日の宵の面白さ、兩側に列ぶ商賣の家々の電燈や瓦斯のあかり﹅﹅﹅と、溝に沿うて露店を廣げた緣日商人のかんてら﹅﹅﹅﹅の光りとが、左右から步道サイド、ウオークの地面を照して其の間を通る人々の頰は、みんなつやつや﹅﹅﹅﹅と反射して輝いて居た。派手な中形の浴衣を着て、湯上りの薄化粧をした襟足をそよ﹅﹅風に吹かせ、手を取りながらおよいで步く女の群の姿に、夜はしほ鮮かな、水際立つた色彩を與へて見せた。彼等はかう云ふ晚に生きる爲めに、生れて來た人間の如くあでやかであつた。宗一は其の群の中に揉まれて、一緖になつて呉服屋の硝子窓の前に立ち止まつたり、繪葉書屋の役者の寫眞を眺めたりした。

ステツキを片手にパナマ帽を被つて、白地の單衣の上へ縮緬の兵兒帶を卷き着け、古道具屋や植木屋の店先を、氣輕に冷かして廻る旦那らしい人逹もあつた。年頃の娘と連れ立つて、螢賣りの籠のほとりに彳んで居る老母もあつた。若い夫婦が唐物屋の帳場の椅子に腰を掛けて、香水の壜を買ひ求めて居ると、外に五六人の野次馬がたかつ﹅﹅﹅て、丸髷の恰好の好い細君の後つきを見惚れて居ることもあつた。至るところ煽風器と蓄音器を備へ附けた洋食屋の、煌々とした室内には、アイスクリームを貪る客が一杯で、四つ角の廣吿のイルミネーシヨンが、靑く赤く光つたり消えたりすると、其の下に澤山の子供が集まつて珍らしさうに仰いで居た。賑やかな大通を一つ曲つた、芳町住吉町の物靜かな新道には、料理屋待合が數多く續いて、緣臺に涼んで居る藝者の傍を、新内語りが流して步いたり、聲色遣ひが木を鳴らして過ぎたりした。さう云ふ有りふれた光景が、宗一には凡て新しく興味深く感ぜられた。

人形町を中心として、時には矢の倉の絹行燈を見に出かけるし、西河岸、茅場町、箱崎町あたりの緣日へ遊びに行くし、每晚必ず十二時頃まで家を明けて居た。さうして、花やかな都會の刺戟に興奮された心を抱いて、夜遲く、濱町の暗い小路を歸つて來る途中、彼はいつでも美代子の事を考へて居た。彼の頭のうちには、往來で眼に觸れた幾組かの夫婦の樣子がまざまざと殘つて居た。同じ散步をするにしても、美代子と二人で世帶を持つた後ならばどれ程愉快を覺えるであらう。自分は是非學校に精を出して、素晴らしい成績で、早く大學を卒業しなければならないと、遠い未來を胸に描いて、彼は頻りに自ら勵ました。

美代子からは、其の後二三度便りがあつた。世間の疑ひを買はないやうに、わざと端書へ「岡田美代子」と麗々しく書き記し、「暫く御無沙汰仕り候ところ、皆樣には御變りもこれなく候」とか、「宗ちやんにもお暇の節小田原へ御出で下され度候。」とか、差し障りのない文句が簡單に連ねてあつた。やがて其のうちに八月も暮れて、丁度小田原から四本目の端書がとどいた時は、明日から一學期の始まると云ふ九月十日の夕ぐれであつた。

七十日の休暇の間、長らく人影を絕つて居た一高のグラウンドの土には、ところ〴〵草が茫々と打ち烟り、分館の廊下に挾まれた十坪ばかりの中庭は廢園の樣に荒れて、百日紅の幹の蔭に、花の汚れた紫陽花あぢさゐが、惱ましげなうなじを垂れて居た。新寮の後の叢の中や、本館の煉瓦の隙間などには、晝でも蟋蟀がころ〳〵と鳴いて、遠い田舎から出て來た學生逹の胸に、「靑草の生ひ茂りたる愁しみ。」を覺えさせた。

熱い熱い夏の光りと鬪つて來た經驗は、人々の丈夫さうな赤銅色の面に溢れて見えた。主任の敎授が出席簿を擴げて名前を呼ぶ時、順々に「はい」「はい」と答へて行く學生の元氣の好い聲は、敎場の四壁に力强く響いた。久し振で一堂に再會した同窓の連中は、互になつかしい眼を見張つて、返辭をした聲の方を振り向いた。別けても、去年の十一月以來缺席がちであつた宗一の、生れ復つたやうな雄々しい姿は、誰も彼も珍らしがつた。

「どうしたい君、ひどく太つたぢやないか。何處かへ旅行でもしたのかい。」

「うん、沼津へ二た月ばかり行つて居た。」

「それぢや、もう體は良くなつたらう。」

こんな應答を宗一は幾度もした。

いろ〳〵の學科の受持の敎師が、入代り立ち代り敎室へ現はれて、新學期に用ふる敎科書の名が五つ六つ黑板へ掲示された。其の中にはマイヤーの萬國史だの、ゲーテのヱルテルだの、古今集だのが書いてあつた。最後に井上と云ふ英語の敎師が入つて來て、

「私の方のは、ゴールドスミスのかう云ふ本を買つて來て下さい。」

かう云つて、黑板へすら〳〵と白墨を走らせながら、"She stoops to conquer" と、直立體の文字で記した。

「タイトルは "She stoops to conquer" です。ゴールドスミスの有名な喜劇で、標題を直譯すると、『彼の女は身を屈して成功を遂ぐ』とでも云ひますかな。もう少し芝居の下題らしく譯せるでせうが、何かうまい言葉はありませんかな。」

敎授は早口にぺらぺらと喋舌つて、

「私の友人に、『滑稽こつけいこひ尺蠖蟲しやくとりむし』と譯した人がありますが、此れなんぞは惡くないです。『尺蠖しやくとりくつするは云々』と云ふ諺から、蟲の尺蠖と女の酌取しやくとりとを掛けたんですな。全體喜劇の筋が、令嬢が酌婦に化けて、思ふ男と添ひ遂げる話なんですから、『戀の尺蠖蟲』は非常に面白いです。」

「先生、to stoop は『屈む』と云ふ意味なんですか。」

と、突然隅の方から質問を發した者があつた。

「えゝ、"She stoops" で『彼の女は屈む』 "to conquer" ―――『征服する。』卽ち『征服す可く、彼の女はかゞむ。』です。」

「そんなら、標題を『姬かがみ﹅﹅﹅』としたら好いでせう。」

かういつたので、敎授も生徒もどツ﹅﹅と笑つた。さうして、みんな愉快さうに立ち上つて、ぞろ〳〵と外の廊下へ出た。

久しく書籍に親しまなかつた宗一は、學校のかへりに神田の中西屋から丸善へ廻つて、早速語學の敎科書だけを取り揃へ、ついでにホーソンのツワイス、トールド、テールスや、獨逸譯と英譯のダンテの神曲などを買ひ求めた。さうして、途々電車の中や往來を步きながら、丁寧に包んでくれた覆ひの紙を解いて、レクラム本のアンカツトの頁を指で切り開いて、物珍らしさうに一枚一枚眼を通した。少しの手垢も着かない、純白な紙の面には、獨逸の活字がこまかく鮮かに印刷されて、遠いうみの向うの、燦爛たる文華の國を想はせるやうな、甘い匂が爽かに鼻をそゝつた。名ばかり聞いて居て、まだ手に觸れた事のなかつた一卷のヱルテルを、これから日に二三節づゝ習ひ覺えて、遲くも來年の春頃までに讀破することが出來ると思ふと、新學期の希望も快樂も幸福も、其のうちに潜んで居るやうな心地がした。

濱町の家へ歸つて、彼は暫く二階の書齋の本箱にいろいろの本を出し入れした後、レクラムはレクラム、キヤツセルはキヤツセルと云ふ工合に並べながら、遠くの方から眺めて見たり、また抽き拔いて拾ひ讀みをしたり、そんな風に午後の半日を潰して了つた。早く獨逸のクラシツクがすら〳〵と理解されるやうになりたい。少くとも今の自分の英語の程度ぐらゐに、喋舌つたり書いたりするやうになりたい。再來年さらいねんの夏、法科大學の書類を、一とわたり渉獵せふれふしてしまひたい。――かう云ふ旺盛な知識慾の策勵を甘受しつゝ、自分の光輝ある將來に就いて、彼はさま〴〵の空想を描いた。

しかし、其の光輝ある將來も、美代子と云ふ者が居なかつたら、何等の價値も興味もないのであつた。美代子が始終宗一を忘れずに居てくれると云ふ事が、彼の精力の源泉でもあり、努力の基礎でもあつた。彼が倦まず撓まず勉强を續けて行くには、どうしても時々戀人のやさしい言葉で、鞭撻の惠みを授かる必要があつた。彼は其の爲めに、一層通學を止めて向が岡の寄宿寮に當分居を定める方が便利だと思つた。刺戟のない、物淋しい兩親の膝下を放れて、野にうたふ小鳥のやうに開け擴げた、ほしいまゝな友逹同士の中に交はり、思ふがまゝに美代子と文通し、圖書館の藏書に親しんだ方が好いと考へた。父母には濟まない譯であるが、自分の生活に意義を與へるには、已むを得ない事であつた。

「僕は今度から寄宿舎へ入らうかと思ひます。其の方が時間も經濟だし、勉强も自由に出來ますから。」

と、其の晚宗一は父に賴んだ。

「そんなら、さうするがいゝ。」

と、宗兵衞は造作もなく承知して、

「下町に居るより運動も出來て、體が丈夫になるだらうし、今頃からちツと人中へ出て置くのも宜からう。」

と云つた。

「それにしてもお前、明日から直ぐと行かなくてもいいだらう。着物は二三枚洗濯してあるけれど、夜具があれぢやあんまり汚いからね。」

母はかう云つて、其の晚から、急に蒲團の縫直しにかかつた。

それから三日ばかりたつた宵に、宗一は荷物を俥に積んで、いよ〳〵濱町の家から本郷へ引き移る事になつた。其の夜丁度父が不在で、お品は女中と一緖に格子先まで送つて出ながら、

「まあ好い月だこと。」

と、二足三足からりころり﹅﹅﹅﹅﹅﹅と冴えた日和下駄の音をさせて、往來の中央まんなかへ進んで空を仰いだ。晝間のやうな月光を浴びた新道の地面には、お品の影がくつきり﹅﹅﹅﹅と印せられて、宗一の久留米絣の單衣の上に、秋らしい風がひや〳〵と沁み通つた。彼は兩股の間に行李を挾んで、默つて大空の月を見上げたが、今更兩親に氣の毒な、可哀さうなと云ふ感慨の胸に迫るのを覺えた。

「では行つて參ります。」

帽子を取つて輕く頭を下げると、俥屋は梶棒を上げた。

「あ、ちよいとお待ち。―――若い衆さん、もう一つ包が何處かへ入らないかね。」

と、母は女中の手から、メリンスの風呂敷に包んだ大きな菓子の袋を受け取つて、

「此れをお友逹にお土產に持つて行くといゝ。書生さん逹だから、とても嵩がなくつちや足りないだらうと思つて、烏賊煎餅をどつさり﹅﹅﹅﹅買はしたんだよ。」

かう云つて、宗一の膝の上に載せてやつた。

「それぢやお前、着物が汚れたら放つて置かないで、時々持つておいで。内で洗濯して上げるから。」

「えゝ、では行つて參ります。」

と、宗一はもう一度頭を下げた。俥は、夢のやうに物靜かな下町の夜路を拾つて久松橋を渡り、掘留から伊勢町河岸の藏造りの家並の前を、ぱたぱたと走つて行つた。

大學前の大通りへ來た頃には、空はますます冴えて、澄んだ空氣が水のやうに往來へ流れて居た。道路の左側には、人形町と同じに露店が並んで、其れを冷かして廻る人々の姿は、フツト、ライトに照される役者の如く、あか〳〵と浮き出て見えた。その中には夜目にも白い二本筋の制帽を冠り、小倉の袴を穿いて、參々伍々連れ立つて步きつゝ、古本を漁つたり、おでん屋の暖簾を潜つたりして居る一高の學生もあつた。自分も今夜から、彼等のやうに勝手な行動を取つて、若い人々に許されたいろ〳〵の享樂を恣にする事が出來ると思へば、彼は何物にも換へ難い、貴い境遇に置かれたやうな心地がした。さうして、孤獨な、物淋しい地位に棄て置かれた兩親の狀態を、成る可く想ひ起さないやうに努めた。

やがて俥は賑かな追分の通りから、一高の正門の内へ入つて行つた。彼は每日通ふ學校の夜景を眼にするのは今が始めてゞあつた。月光の漲る庭にこんもりと草木が生え茂つて、雨の降りそゝぐやうに絕え間なく聞える一面の蟲の音、黑く森閑と眠つて居る本館の建物、うす暗い闇に底光のする分館の硝子窓。―――凡てが宗一には珍らしかつた。彼は蒸すやうな靑葉の匂に鼻を衝かれながら、遠くに響く寮歌の聲に耳を傾けた。

晝間の騷ぎに引換て、死んだやうにひツそり﹅﹅﹅﹅と人氣の絕えた校舎の壁に沿ひながら、若樹の櫻を植込んである構内の道を、半町足らずも奧へ進むと、忽ち其處に廣い〳〵向が岡の高臺が展けた。遙に上の谷中の森を、朦朧とした秋霧の這ふ中に瞰下して、東寮、西寮、朶寮、北寮、南寮―――の五つの棟が、ゴシツクの寺院のやうに、甍の角を尖らして聳えて居る。この頃の夜長を、全寮の學生が息を凝らして勉强して居るのであらう。一階、二階、三階のところ〴〵になつかしい燈火の明りが洩れて瞬いて居る。宗一は何となく「燈火とうくわ可親したしむべし」と云ふ言葉に、新しい憧れの心を寄せた。

自分の部屋と定められた朶寮一番の石階のほとりに俥を捨てゝ、そつと﹅﹅﹅自修室の戶を開けると、二三人の同室生が專念に讀書して居る最中であつた。

「やあ來たな。」

かう云つて、机の上の本箱の蔭から頭を擡げたのは、クラスの中でも、頭惱が好くて人が好くて、いつ見ても快活な深切な野村と云ふ男であつた。

「机は彼處に二つ空いとるぞ。孰方どつちでも君の好い方にし給へ。」

と、廊下に近いデスクの方を、野村は頤でしやくツ﹅﹅﹅﹅て見せた。外の二人―――淸水と中島は、ちよいと近眼の顏を上げて、鐵緣の眼鏡を電燈にぴかりとさせながら、默つてお辭儀したかと思ふと、再びおもむろに本を讀み續けた。

「誰か濟まないが、荷物を寢室まで手傳つてくれないか。」

「おゝ、さうか。」

と、野村は氣輕に立ち上つて、宗一と一緖に行李や蒲團を二階の寢室へ運びながら、

「僕は君の來るのを待つとつたんだぞ。―――君はたしか江戶つ兒だらう。」

と、突然つかぬ事を訊いた。

「江戶つ兒には違ひないが、あんまり江戶つ兒らしい人間ぢやないよ。―――何故。」

「僕は此れから君に就いて、大いに江戶趣味を硏究するんぢや。リフアインされた都會の生活と云ふものを、覺えたいんぢや。ほんとに賴むぞ。」

かう云つて野村はいそ〳〵と自修室へ下りて行つた。

二階の寢室と云ふのは、琉球疊を敷いた十疊あまりの日本間で、每晚就眠時間の午後十時から十一時の間でなければ、電燈をともさなかつた。暗い室内には男臭い黴臭い匂が籠つて、月が硝子越しに靑白く射し込んで居た。旣に蒲團へもぐつてぐつすり眠つた者もあれば、片隅に西洋蠟燭を立てゝ、獨でこつ〳〵勉强して居る者もあつた。

宗一は、一と通り自分の机へ書物を飾り附けた後、ヱルテルの下習ひに取りかゝつたが、場所馴れぬせゐか、どうも落ち着いて居られなかつた。暫くすると、彼はロセツチの詩集を懷ろにして、ぶらりと後庭の廣つ場へ步いて行つた。

何と云ふ美しい晚であらう。………細い草葉の數が、一枚一枚讀めるやうに鮮かで、しツとりとした夜露の玉が麻裏草履にこぼれかゝり、二三步の間に宗一の素足はつや〳〵と濡れて光つて來た。俯向いて月を踏んで居る彼の胸のあたりには、自分の形が黑い影を落して、明瞭に染出された。

練兵場のやうに遠く續いた坦々たるグラウンドは、さながら大きな湖水の如く透徹つた夜色の底へ沈んで、遮る物もない遙な地上四五尺のところに、一抹の靄が白く淡く棚引いて居る。更け行く空は、冷き光りが皎々と冴え返つて、宗一の身の周圍まはりには一點の人影さへ見當らない。此の淸淨な莊嚴な自然に包まれて彳んで居る時、彼は人形町の灯びも廣小路の絹行燈も、懷しいとは思はなかつた。

恍惚とした醉ひ心地を胸に湛へながら、彼は運動場の東北隅にある「小便の森」―――寮生が常に放尿するので、かう云ふ稱號を附けられて居た。―――の木蔭に凭れた。寂寞たる四邊の沈默の裏に、何者かゞ自分の耳元へ來つて、ロマンチツクな、センチメンタルな哀韻の囁きを傳へるやうな氣持がした。

「あゝ、かう云ふ晚に美代子はどうして居るだらう。」

自分に朗かな聲があるならば、豐かな連想があるならば、咽喉を搾つて、息の續く限り憧憬の歌を唄つて見ようものを。成らう事なら、今夜の中に小田原迄跳んで行つて、月輪の銀と碎ける波打際の砂濱に、唯二人膝を擦り寄せ、熱い淚をさめ〴〵と瞳に潤ませて、泣き明して見ようものを………。

ロセツチの詩集を膝の上に開くと、二三枚の頁の緣をそよがせながら、何處からともなく秋風が吹き渡つて居る。うつゝともまぼろしともつかない、謎のやうな光りがしらじらと滲み入る紙幅の面に "Sudden Light" と、はツきり﹅﹅﹅﹅浮き出て見える太い活字は、大方詩の題であらう、字體の小さい本文の方は、拾ひ讀みをするさへ覺束なげに、月あかりの中へ溶け込んで、うすく消えて了つて居る。

"Sudden Light" ―――彼は其の詩の本文を、嘗て讀んだ事があるやうに思つた。何でも其れは戀の詩であつた。此の世に生を享ける前から、宿命の力に結び附けられた男と女の、因緣の深さを歌つた戀の詩であつた。雲の切れ目からさツ﹅﹅と靑空が閃いて、忽ち又失せるやうに、其の男の眼の前に、前の世の有りし姿がぱツと現はれる。過去の世界に於いても、今と變らず愛し合ひ契り合つて居る二人の樣子が幻燈の如くありありと男の心に映る―――そんな意味を歌つた戀の詩であつた。月光の羅衣うすぎぬに蔽はれて、おぼろに霞んで居る文章の字句は分らないでも、彼は其の詩のやさしい思想と、暖かい調子とを思ひ起す事が出來た。自分もロセツチのやうな感情を、美代子に對して抱いて居たい。過去未來の世界はもとより、國を南北に隔つとも二人の身體には同じ血潮が脈を打つて流れて居る。小田原と東京と、二十里の西と東に月を仰いで、互に魂を通はせて居る。………

「橘君ぢやありませんか。」

かう云つて、不意に後から呼びかけた者がある。中學時代から、宗一より一級下の後輩、―――文科志望の佐々木と云ふ男で、クリ〳〵と五分刈にした、人並より大きく圓い頭の鉢を聳やかしながら、二三間先の原のまん中に突立つた儘、

「どうも君に似てゐると思ひましたが、矢つぱりさうでしたね。いつから寮に入つたんです。」

と、田舎者らしい、純朴な律儀な口調で訊いた。

「今夜。」

「あゝさうですか。………花やかな下町の生活に比べると、寮の生活は又色彩が違つて面白いでせう。寮でも今夜のやうなしんみり﹅﹅﹅﹅した晚は、めつたにありませんよ。あゝ好い月ぢやありませんか。」

かう云つた佐々木の聲は、柄にもなく女のやうに細くなまめいて、如何にも興奮した神經を抑へ難いと云ふ風であつた。彼は無骨な容貌に似合はぬ美音家で、平生から詩を吟ずるのを得意として居た。

「日本橋なんぞに居ると、あゝ云ふ蟲の音は聞かれないね。」

「さうでせう。………けれどもかう云ふ晚に、下町の新道なんかを通つて、新内の流しを聞くと何ともかとも云ひやうのない、うら悲しい氣持がしますね。僕は下町趣味のうちで、新内流しが一番好きです。德富蘆花が『自然と人生』の中に書いて居ますが、ほんとにあれは "Still, sad music of humanity" ですね。」

感激の深い言葉に抑揚よくやう頓挫とんざと付けながら熱心な淀みのない辯舌で、佐々木は說敎でもするやうに滾々と語つた。

「君はヲーズヲースが大好きだツたが、此の頃でも相變らずかい。新内流しと、ヲーズヲースと孰方どツちがいい。」

「僕は孰方も好きですよ。僕のやうな田舎者は、ヲーズヲースの自然に對する瞑想や詠嘆の詩に、いくら啓發されてるか知れませんもの。そりやあね、僕だつて、浦里時次郞のやうな悲劇に憧れることもありますけれども、中學時分から感化を受けたヲーズヲースの恩を忘れることは出來ませんよ。戀と自然とは、孰方が孰方とも云へないだらうと思ふんです。」

彼は自分が眞面目に考へて居るならば、どんな場合でも、誰の前でも遠慮會釋なく滔々と縷述るじゆつするのが常で、臆病な小心な氣質の一面に、「野人やじんれいならはざる」、正直な田舎者の特長を備へて居た。

「それはさうと、君、いつかのHの話はどうなつたい。」

默つて相手の物語を聞いて居た宗一は、ふと何かを想ひ出したやうに、項を上げてかう尋ねた。

「あれですか、あれは大分話が進んで來ました。親父も承知してくれましたから、次第に依つたら結婚の約束をするかも知れません。」

「それは好い鹽梅だね。」

と、宗一は心から友人の幸福を祈るやうな眼つきをして、佐々木を見上げた。色の黑い、頑丈な佐々木の顏も、今夜ばかりは美しいつや﹅﹅を帶びて、輪廓までが優しい、きやしや﹅﹅﹅﹅な曲線に包まれて見えた。

「それに僕のやうな男は、結婚した方が却つて落ち着いて勉强も出來ると思ふんですよ。實は先逹せんだつて春子の兄の方から、ちよいとそんな話があつたもんですから、親父が内々先方の國許の方へ、家の樣子を捜りに出かけたんです。今のところ、はツきり明言は出來ませんけれど、まあね、多分結婚は一二年の後として、約束だけでも取り交はす事になるでせう。」

「さうし給へ。君と春子さんに限らず、互に戀し合つて居ながら、結婚もせずにグヅ〳〵して居る位、不爲めの事はないよ。親の目を忍んでしからぬとか、學生の癖に不都合だとか、無意味な理窟を云つて、無暗に中を裂かうとするのは、結局男女を墮落させる元なんだ。學生時代に戀に陷つたら、間違ひの起らない間に、どん〳〵結婚の手續きを踏んで、安心して了はなけりや駄目だ。」

珍らしく宗一は元氣づいて、こんな意見を吐いた。さうして、ロセツチを懷に收めて立ち上つた。

「僕もさう思つたから、一層いつその事正々堂々と親父に打明けて了つたんです………。」

佐々木は一緖に並んで、東寮の方へ步を移し乍ら、相手の議論など耳へ入らないやうに、猶も自分の事許り話し續けた。

「親父はなか〳〵如才ない方で、僕の性分をすつかり呑み込んで居るものですから、成るべく逆らはない方針を取る積りなんでせう。それに妹もね、春子さんなら學校友逹で、氣心の解つた人だから、大變いゝつて喜んで居ます。」

「そりや本當に結構だ。いづれお披露ひろめの時にはウンと御馳走して貰はう。」

「えゝ、是非ね。屹度儀式は田舎の家でやる事になるでせうが、僕の國の方では一人でも東京のお客の多いのを見えにする風習があつてね、父にしろ母にしろ、君逹が大勢來て下されば、嬉しがるに極まつて居ますから、ほんとにお呼びしますよ。………」

「それぢや失敬。」

宗一は少しうるさくなつて、

「僕の部屋は彼處だから、ちツと遊びに來給へ。」

と、朶寮の廊下へ上つて行つた。

もう十時過ぎであつた。自修室へ入ると、みんな賑かに喋舌りながら、烏賊煎餅をばりばり﹅﹅﹅﹅やつて居た。

「おい橘、ちよいと君の留守に失敬して風呂敷を展げたぜ。大方お土產だらうと思つて、無斷で頂戴してるところだ。」

かう云つたのは、杉浦と云ふ、色の白い才子肌の男であつた。

「僕は今しがた戶外おもてから歸つて來て、野村に君の入寮した話を聞いたんだ。何しろ野村は君に依つて盛んに江戶趣味を鼓吹こすゐされたいんださうだから、何卒一つシツカリ敎へてやつてくれ給へ。―――先生此の頃は豆絞りの手拭ひをぶら下げて朝湯に出かけたり、每朝笹の雪まで豆腐を喰ひに行つたり、おほい半可通はんかつうを振り廻して手に負へないで困つてるんだから。」

「あはゝゝゝゝ。」と、野村は子供のやうに顏を赤くして面喰ひながら、

「だツて橘君、笹の雪の豆腐は全くうまいだらう。―――さうケチを附けるには及ばんぞ杉浦。」

「然らば豆腐の方は、うまいから喰ひに行くとして、熱い湯へ痩我慢をして漬つてるのは、どうしてもスコ變だ。ひそかに秀才野村君の爲めに惜むね。」

「杉浦だつて、あんまり人の惡口は云はれんよ。………君は今夜も昇之助へ行つたんだらう。」

容貌魁偉くわいゐな運動家の中島が、嘴を入れる。

「ふん、僕の昇之助は一向可笑しくないさ。義太夫と云ふ物は健全なる娯樂だから、未だ文弱の名を冠する譯には行かないさ。」

「君は口が逹者だなあ。」中島は高い鼻を蠢かして、無邪氣に感嘆した。

「所で橘君に紹介するがね。」と、杉浦はいよ〳〵圖に乘つて辯舌爽かに、

「此の部屋の住人で、一番えらくツて、且正直な人間は中島さんだよ。見給へ、あの面魂つらだましひからして實に非凡だらう。僕は中島の橫顏プロフアイルを見ると、いつでも中學の政界歷史の敎科書にあつたヂユリアス、シーザーの肖像を想ひ出すよ。色こそ黑けれ、鼻高く、唇締まり、顴骨秀でゝ英邁の氣、自ら眉宇の間に溢れてるだらう。どうしても豪傑の相があるよ。………」

「あはゝゝゝゝ、いやにわしの事を褒めるぢやないか。」

「………それ、それ、あの笑つたところなんか洒々しや〳〵落々らく〳〵たる英雄の襟懷きんくわいが窺はれるだらう。かんら、かんらと打ち笑ひと云ふのは、けだし此處を云ふのだね。」

「もう好い加減にせんか。」

「まあ、默つて聞け。知勇兼備の良將と云ふのは中島の事だよ。野球の選手で、柔道が初段で、而も頭腦の明敏なること、秀才野村君と伯仲の間にある。それから僕の敬服するのは、胸中常に光風くわうふう霽月せいげつの如く、一點の邪氣を留めない事だね。あの通り、僕に賞讚の辭を浴びせかけられて、周章狼狽、爲す所を知らざるのを見ても、いかに無邪氣だかゞ解るだらう。中島にして始めて、小兒の如き英雄たり得るんだね。」

「わしも君の才氣煥發には、感心しとるよ。」

と、中島は手持ち無沙汰の照れ隱しを云つた。

「僕の才氣煥發は、君を待たずして明かだよ。―――それから、橘君、此の淸水だがね、此の男は朶寮一番唯一のクリスチヤンにして、ピユーリタンであります。」と、杉浦は肩を聳やかして、痩ぎすの、色の蒼褪めた、淸水の方を睨一睨げいいちげいした。

「出鱈目ばかり云ふ男だなあ。」

「出鱈目ぢやないさ。それとも君はクリスチヤンぢやないのかい。滿座の中で、僕はクリスチヤンでありますと宣言する勇氣のないやうな信仰なら、止しにするさ。」

「僕はいつでも立派に、クリスチヤンだと云つてるぢやないか。」

神經質の淸水は、少し氣色ばんで憤然とした。

「だから僕の云ふ事は出鱈目ぢやないよ。當世のクリスチヤンは、因循な、女性的の人間が多いのに反して淸水はテニスが得意で、此の上もなく活潑なのは偉とするに足ります。もう一つ得意なのは英語であります。ふだん日本語を使ふ時でも度々 alas! とか oh! とか、bravo! とか英語の間投詞が出て困るくらゐです。」

みんな手と叩いて、哄笑した。

「從つて外國人にも交際が廣く、西洋のエチケツトに通曉つうげうすること、淸水君の如きはめつたにありません。いつもきちんと折目の正しい制服を着、汚れ目のないカラーを附けた優雅なスタイルは、常に吾々の欽仰きんぎやうするところであります。お洒落と基督敎とは必ずしも矛盾するものではありません。カーライルのやうな無作法な、禮儀を辨へざる人間は、淸水君は大嫌ひださうです。江戶趣味の鼓吹は野村秀才之に任じ、ハイカラの鼓吹は、專ら淸水クリスチヤンが之に任じます。」

淸水は堅く閉した唇の周圍に、にや〳〵と煮え切らない笑ひを洩らした。

「以上の二人は、我々のうちで最も特徴のある人間であります。勿論、其の他の諸君と雖も決して碌々ろく〳〵たる連中ではありません。みんな何處へ出しても恥かしからぬ、立派な息子さん逹ばかりであります。―――うむ、さう、さう、それから橘君、君はさツき寢室へ行つたらう。」

「うむ。」

「大山が蒲團を被つて寢て居やしなかつたか。」

「大山だか誰だか、一人寢て居たよ。」

「あの男は全くエツキスだね。僕の烱眼けいがんを以てしても、大山ばかりは馬鹿だかえらいんだか、判らんね。恐らく自分でも好く判らないんだらうと思ふ。ズバ拔けた大人物のやうな、さうかと思ふと、感じの鈍い愚物のやうな、とんと要領を得ない男だ。唯人が勉强してゐる間は、寢たり遊んだりして居て、草木も眠る丑滿うしみつ時分じぶんにこツそりと勉强する事だけは確なんだ。」

「けれども、彼の男は不思議に成績が好いよ。」

かう云つたのは中島である。

「さうだよ。だから僕は結局えらいんぢやないかと思ふ。大石良雄だの、西郷隆盛なんて云ふのは、あんな男が氣紛れにえらくなつたんだぜ。恨むらくは、僕に伊藤仁齋の明なきことをだ。」

「伊藤仁齋は君のやうな饒舌家ぜうぜつかぢやなかつたらう。」

と、淸水が云つた。

「生意氣な事を云ふなよ。クリスチヤンに伊藤仁齋は解らないから。」

杉浦は嶮しい眼つきをして淸水を睨んだ。淸水は又にやにやと薄笑ひをして、それきり默つて了つた。

「橘君、朶寮一番のドライ、ナーゼンと云ふものを知つてるかい。」

杉浦の一と息ついた隙を狙つて、野村が口を挾んだ。

「中島のローマン、ノーズと、大山の團子ツ鼻と、僕の市村羽左衞門式の鼻を稱して、ドライ、ナーゼンと云ふんだ。」

と、杉浦は直に引き取つて、說明した。

いつの間にか烏賊煎餅をすつかり喰ひ盡して、冷めたくなつた番茶をがぶ〳〵呑みながら、みんな十一時近くまで喋り續けて居た。さうして、二階へ上つて行つたのは、電燈の消えた後であつた。

「おい君、野村の寢間着を見てやつてくれ給へ。―――此れが江戶趣味なんださうだから。」

寢る時、杉浦は宗一にかう云ひながら、茶格子の單衣に絲織のどてら﹅﹅﹅を襲ねてゐる野村の立姿を、蠟燭で照して見せた。

「橘君、君の蒲團は、そりや秩父銘仙かい。」

野村は寧ろ得意で、蠟燭のあかりを受けながら訊いた。

「何だか僕はよく知らない。」

と宗一は夜具の中へもぐつた。

暗闇に馴れないせゐ﹅﹅か、境遇の變つた爲めか、其の晚宗一は容易に眠られないで、彼方此方寢返りを打つた。凡そ一時間ばかり過ぎた頃、

「おい、君はまだ寢られないのかい。」

と、闇中の何處かで杉浦の聲がした。

「うん、君もまだかい。」

「僕は子供の時から、寢つきが惡くツて困る。」

かう云つた杉浦の調子は、いつになく沈鬱であつた。

それから暫くとろとろ﹅﹅﹅﹅として、再び宗一は眼を覺ました。見ると大山は枕の上へ頰杖を突いて、蠟燭の火影を机の抽き出しで包み、眞言しんごん行者ぎやうじやのやうに輝く瞳を一心不亂に書物へ曝して居た。

寢室の窓から望む上野の木々の梢が、一日一日と黃ばんで來た。朝は硝子障子に靑々と冴えた空が映つて、力の弱い光線が疊の目の上へハツキリと落ちて居る。ぽんと夜具を撥ね除けて起き上ると、寢間着の肩へそよそよとつめたい風があたつて、何となく氣が引き締まるやうである。宗一は顏を洗ふついでに每日必ず浴室へ行つて、水風呂の中へ飛び込んだ。

頻りに快晴の天氣が打ち續いて、敎場に授業を受けて居ながらも、學生逹は爽かな外氣を戀ひ慕ひ、心は常に野を夢みた。勉强の爲め圖書館へ隱れても、寢室へ逃げ込んでも、秋の囁きが耳に聞え、眼に映り、魂をそそのかして、日の暮れるまでは落ち着いて讀書も出來なかつた。午後の三時頃、學校が濟んで寮へ戾ると、みんなカラ〳〵と朴齒ほゝばの下駄を鳴らしながら、ステツキを突いて何處かへ消え失せて了ふ。主なき自修室の机の上へ放り出された敎科書に、一日かんかん﹅﹅﹅﹅と照つて、頁がひとりでにぴらり、ぴらりと飜つて居るが、誰も夜になるまで歸つて來ない。中島はグラウンドへ行つて、野球の練習をして居る。淸水はテニスコートへ出て汗を搔いて居る。野村は「交際術の一種」と稱して、池の端の碁會所へ通つて居る。此の頃は大分上逹して初段に六目ろくもくまで漕ぎ付けたと云ふ。

「ふと歸つて、ふと出でゝ行く日和かな。―――どうだい、名吟だらう。」

と云ひながら、杉浦も出かけて行く。或る時は淸水と一緖にテニスをやつたり、野村に同伴して碁の硏究をしたり、連中を狩り催して艇庫から船を出したり、野球の試合に馳せ參じたり、杉浦は多技多能を以て誇りとして居るだけに、殆ど遊ぶ方で寧日ねいじつがない。夜になつても、ぷいと姿が見えなくなつて、歸るのは通例十時過ぎである。いつでも試驗の四日ぐらゐ前から蒼惶として準備に着手し、大槪五番以上の成績を占めて居る。

大山も何處へ行くのだか、屹度散步に出かけて了ふ。超然として他の連中とは關係なく、勝手に歸つて來て、飯を食つて勝手に寢て、勝手に勉强して居る。

宗一も半分は大山の眞似をして、晝間自修室の空明からあきの時分に、せツせと讀書したり、小田原へ送る手紙をしたゝめたりした。

「戀は人をして孤獨ならしむ。」

さう云ふ考へが彼には嬉しかつた。强ひて淋しい所へ身を置いて、美代子の事を考へながら、勉强をする。戀の手紙を書く。乃至甘い瞑想に耽る。………其れが無上の樂しみであつた。

一と月程の間に、汐風に染まつた皮膚の色はすツかり剝げて、顏も手足もつや〳〵と白くなつた。日增しに肥えて行く肉附きを、時々湯上りの鏡にうつしてぴたぴたと腕を叩きながら、彼は暫く自分の裸體に見惚れてゐる事もあつた。或る晚、宗一は運動のついでに、本郷の唐物屋から小型の鏡を買つて來て、それを机の上に立てた。

「やあ、君いゝ物を買つて來たね。」

杉浦は早速目をつけて、自分の顏をうつして見ながら、

「大分髯が生えたなあ。」

と、頤を撫でゝ、浩嘆かうたんするやうに云つた。

土曜日曜に宗一が歸宅する時は、屹度途中まで野村が附いて來て、

「君、日本橋で鮨のうまいのは何處だらう。」

などゝ、晝飯の案内を賴む。花村、中鐵なかてつから追々進んで大國屋などへも上り込む。いつも勘定となると、

「そりやいかん、僕に拂はしてくれ給へ。」

と、野村は懷から帛紗ふくさに包んだ古いつゞれの紙入れを出す。面倒臭いと思ひながらも、始めの四五度は附き合つた宗一も、しまひには氣の毒になつて、

「今日は少し都合が惡いから、失敬する。―――板新道いたじんみちにうまい天ぷら屋があるさうだから、君行つて見たまへ。」

こんな事を云つて、ことわつて了ふ。すると野村は路を尋ねて一人で出かけ、歸りに歌舞伎座、明治座あたりを覗いて、番附や筋書を大切に抱へて、夜遲く寮へ戾つて來ると、なんにも知らない運動家の中島を捉へて得意の觀劇談を試みる。

「梅幸か、梅幸はわしも知つとるよ、暑中休暇に國の方へ來て芝居をやつたことがある。―――なか〳〵好い女子になるなう。あれは君、上手なのかい。」

と、中島が尋ねる。

「うむ、芝翫よりは僕は好きだぞ。」

「さうかな、芝翫よりはいゝかな。―――わしの親父は權十郞と云ふ役者を大變褒めて居つたが、そんなにいゝのかい。」

「權十郞と云ふのは、今居らんよ、そりやきツと昔の役者だらう。」

二人が眞面目で問答して居るところへ、淸水がスツキリした、ひよろ長い制服姿で、尖つた靴の爪先を立てながら、西洋流に跫音を忍ばせて入つて來る。

「淸水君、今日は何處へ行つたんだい。」

と、野村は氣輕に聲をかける。

「僕か、僕は代々木のミス、リヽーと云ふ女の所まで行つて來た。」

「リヽーと云ふのは、オールド、ミスかい。」

「うん、三十前後のレデーだよ。僕は事に依ると、今夜英語の寢言を云ふかも知れんぜ。何でも二三時間英語ばかりで話し續けて居たんだから。」

「大したもんだなあ。」

と、中島は冷かすやうな口調を弄したが、生憎杉浦が居ないので、辛辣な警句も出ない。

さう云ふ晚に、杉浦は大槪娯樂園か、江知勝えちかつあたりへ二三人で飮みに行つて居た。さうして、門限の過ぎた時分にこつそり生垣を乘り越え、高い調子で笑つたり、歌つたり、喚いたりしながら、眞靑に醉拂つて歸つて來ると、ガタンと突慳貪つつけんどんに寢室のドーアを開けて、開け放したまゝ赤裸で蒲團の中へもぐり込んで了ふ。

小田原からは、五日に一遍ぐらゐ、鴇色ときいろの洋紙に長々と書きつらねて、宗一の許へ送つて來た。

「あたし東京へ行きたくつて、行きたくつて仕樣がないのよ。宗ちやんにもお目に掛りたいし、叔母さんにも隨分御無沙汰して濟まないけれど、どうしても當分は出られないの。此れはごく〳〵祕密なのよ。母も相談に與らないらしいのよ。實は此の間、母がそツとあたしを呼んで、お父さんから結婚の話が出たら、お前は承知するつもりかツて尋ねられたの。何と云つて好いか解らないから、おツ母さんさへ承知ならツて、云つて置いたの。勿論まだハツキリと決まつた譯ぢやないけれど、此の頃は氣が落ち着かないで、仕樣がありません………。」

それから又二三日過ぎて、

「………先日の手紙、宗ちやん御覽になつて。寄宿舎なんぞへ時々手紙を上げて惡かないの。うるさいと思召すか知れないけれど、此の頃は淋しくつて、便りがなくつて、手紙でも書くより外、氣が紛れないの。ほんとに濱町に居た時分は、賑かで面白かつたわね。あたし彼の時分がなつかしくつてならないのよ。………」

手紙の文句は、だんだん細やかな、切ない情を訴へて、しみ〴〵と書き綴られてあつた。森閑とした晝の寢室で、胸をときめかせながら讀んでゐるうちに、宗一は譯もなくほろ〳〵と淚を流した。女は婉曲に自分へ結婚を迫つて居るのだ。他から結婚問題の持ち上らぬ先に、早く自分と話をつけて了ひたいのだ。さうだとすれば、宗一の取るべき方法は自ら明かであつた。其の運動に着手する順序として、兎に角一應美代子に會つた上シツカリと當人の意向を突き止めて置きたい。

「御手紙拜見仕り候。就いては近日中に拜顏、篤と御相談致したき事有之これあり、小生の方より參上致す可きか、それとも單身御上京あるか、いづれにても差支無之これなく候間、其邊の御都合伺ひたく、至急御一報下され度候。」

好ましい事ではないが、已むを得ず女名前にして、宗一は直ぐに返事を認めた。

其の後、二日經つても三日經つても美代子からは何とも云つて來なかつた。彼は今更早まり過ぎたやうに感ぜられて、いざと云ふ瀨戶際に、女が躊躇して居るのかとも想像した。自分のした事は、あまり輕擧の嫌ひがなかつたらうか。自分は結局、あの輕擧を輕擧として、後悔しなければならないのであらうか、女は自分の心を見拔いたまゝ自分を放り出して、棄て去つて了ふのであらうか。

「君は昨今意氣悄沈してるね。」

と、杉浦は或る時、晝飯の休み時間にうらゝかな日あたりのいゝ石段へ腰をかけて、ぼんやりとテニスを見てゐる宗一の肩を叩いた。

「さうかい、そんな譯はないんだが。」

「譯がないとは云はせないぜ。逐一僕に白狀し給へ。」

かう云つて、杉浦はにや〳〵と底氣味惡く笑つた。

「何を白狀するんだい。」

「江戶ツ兒と云ふものは、もう少し虛心坦懐でなくちやいかんぜ。相州小田原の消印のある手紙は、ありや一體何だい。」

ところへ、淸水が洋服の上着を脫いだ輕快ないでたちで、ラツケツトを持つたまま、コートから駈けて來た。

「橘君、あの手紙では大分杉浦が心配してるぜ。もううからみんなで疑問にして居たんだ。君はどうもいかんなあ。」

と、ヅボンのポツケツトから、眞白な、なまめかしいハンケチを出して、顏の汗を拭き〳〵、息をせい〳〵﹅﹅﹅﹅はずませ乍ら、

「………僕だつて、そんな解らずやぢやないから、隱さなくたツていゝぜ。そりや何だよ。本當に、眞面目なラブならば、僕等の信仰と少しも矛盾しないばかりか、寧ろ同情を持つてるよ。」

かう云つて、淸水は宗一の傍へ腰を下した。シヤツがべつとり﹅﹅﹅﹅と濡れてくツ着いて、胸隔の狹い、細長い胴が呼吸の度每に激しく波打つて居る。

コートの方では絕え間なくぽん、ぽん、と球の音がした。其れが小春日和の朗かな空に響いてネツトを掠めて走つて行く球が、白線を描きつゝ、流星のやうに飛び違ひ、入り亂れる。

「原田ア、スタイルが好いぞウ。」

淸水は痩せた體から、大聲を出して怒鳴つた。原田と呼ばれた男は、半顏にてかてか﹅﹅﹅﹅赭色しやいろの日光を浴びて、眉をしかめて球を打ちながら、ちよいと此方を向いてニツコリした。

「………一體あの手紙の主は何者だい。娘か、藝者か。」

杉浦は眞顏を作つて、詰るやうに、

「………兎に角堂々と狀袋へ名前を書いて寄越すんだから、人目をそばだてるね。え、おい、一體あれは娘か藝者か。」

「まあ、孰方でもいゝさ、何れ話すから。」

「いや、孰方でもよくないよ。娘か藝者か、其處が判明するに從つて、我々の肩の入れ方に大差を生ずるからな。君にしても、僕等の臀押しがあれば、意を强うするに足るぜ。非常に重大な利害問題だぜ。」

「野村は、何でも君の事だから、相手はいなせ﹅﹅﹅な藝者に違ひないツて、頻りに想像を逞しくして居るからなあ。」

かう云つたのは、淸水である。

「若し美代ちやんなる者が藝者だとすると、野村の江戶趣味先生は喜ぶかも知れないが、淸水ピユーリタンは之を擯斥ひんせきするさうだ。成るべく美代ちやんが良家の令孃で、英語がぺら〳〵で、洋服が似合つて、理想の高い淑女である事をこひねがふのださうだ。」

「僕はさう云つたんぢやないよ、藝者だつて眞面目な戀ならばいゝさ。」

「成る程、そんなら猶の事安心だ。君、君、云ひ給へ。」

其の時、からん、からん、と授業の知らせの鐘が鳴つた。

いづれ機會があつたら、きツと話すよ。」

「うん、今夜あたり、飮みながらゆつくり﹅﹅﹅﹅聞かう。―――今度の時間は倫理だな、おい、ラツケツトを借せ。」

杉浦は淸水の手からラツケツトを奪つて、

「返辭をして置いてくれ給へ。」

かう云ひ捨てゝコートの方へ駈けて行つた。彼は學課が氣に入らないと、いつでも敎場へ出なかつた。さうして、敎師が出席簿を讀み上げる時だけ、友人に賴んで、代つて返辭をして貰ふのが常であつた。

「僕は、返辭をするのは困るよ。」

淸水は苦々しい調子で云つた。

「そんなら橘に賴んだぞウ。」

かう叫びながら、杉浦はぽんと球を靑空へ打つた。

宗一は倫理のノートを取りに自修室へ入つたが、いつの間にか一通の手紙が、自分の机に載せてあつた。考へると丁度一週間目に、小田原から返辭が屆いたのである。封書ではあるが、文句は極めて短く、而も卷紙へ鉛筆であわたゞしげに、

「御返事がおくれてほんとに申譯がありません。あれから急にいろ〳〵の事件が降つて湧いて、宗ちやんに手紙を上げるのさへ、内證でなければ出來なくなつたの。今日は父も母も留守なのでやう〳〵ひまを見て、此れだけ書いたのよ。まことに濟みませんが、此れから宗ちやんもあんまり手紙をよこさないやうにして下さい。若しよんどころない用事があつたなら、端書へちやんと本名を記してよこして下さい。」

と、ぞんざいな走り書で認めてある。

どうしても宗一には「自分の事を斷念してくれ。」と、云ふやうにしか判じられなかつた。戀しさと、哀れさと、腹立たしさが、胸の内で渦を卷いた。恐ろしい力で、頭をグワンとたれたやうに、體中が痺れて、心がくらくなつて、意氣も根氣も張合も、彼は一度に取り落した。

「淸水君、僕も休むから君が嫌なら誰かに杉浦と僕の返辭を賴んでくれ給へ。」

かう云ひ捨てゝ、彼は散步に飛び出した。

僅か一瞬の間に、自分の境遇が激しい變化を來たしたやうに思はれた。戶外おもてを步きながら、自分で自分の悲しい顏が、見えるやうに感ぜられた。往來には午後一時の日が黃色く照つて、眼に快い程の明るさが、ぱツと大地へ映つて居る。眞直な本郷通りが、路を行く人の下駄の齒まで數へられさうに、果てから果てへくツきり﹅﹅﹅﹅と澄んで冴え返つて、追分の角へ立ちながら「おーい」と呼んだらば、三丁目の電車の終點に聲が響きさうである。遠くの方の家々の一部や、人間の着物などが、時々白く小さく、ピカ〳〵と光る。其の細かい、光る物を、彼は遙にヂツト視凝めてぼんやりと步いて居た。大學の正門から血色のすぐれた四五人の角帽が、ノートを抱へて威勢よく語り合ひつゝ、彼と擦れ違ひに駒込の方へ行つた。

何だかまだ、一縷いちるの望みがあるやうにも考へられた。唯あの手紙の文面を臆測したゞけで、がツかりして了ふのは、早計のやうにも信じられた。平生の美代子の性質から推すと、輕々しく自分を棄てゝ父の云ふなり次第に、心にもない結婚をする筈がない。少くとも、自分と結婚が出來ると云ふ、希望が確であつたならば、選んで他へ嫁ぐ筈はあるまい。さう解釋するのが至當であつた。さう解釋して、宗一の方からも、堂々と美代子の家へ結婚を申し込んで見るのが、上策であつた。

「おい、ひとりで何處へ行くんだ。」

丁度靑木堂の前へ來た時、宗一は聲をかけられて振り返つた。杉浦と、もう一人見知らぬ男が連れ立つて、後から追ひ着いて來た。

「何だい、君も休んぢまつたのか。僕の返辭をどうしたんだい。」

「淸水に話して置いたから、誰かに賴んでくれたゞらう。」

「いやにそは〳〵してるぢやないか。全體何處へ出かけるんだ。例の手紙の一件かね。」

「あんまり天氣がいゝから、ぶら〳〵步いて見ようかと思つて。」

宗一はもどかしさうに彳みながら、浮かぬ顏をして、出放題を云つた。

「此れから柴又しばまた川甚かはじんへ行くんだが、君も一緖に附き合ひ給へ。それともお邪魔かね。」

「うゝん、そんな事はない。」

一層いつそこんな時には、友逹と一緖に田舎の景色を眺めて、酒を飮むのも惡くない。と、宗一は思つた。

「君に此の男を紹介する。―――此れは佛法ふつはふの山口といふ人間だ。始終女郞買ばかりして、向陵の健兒の面汚つらよごしを一手に引き受けてる男なんだが、感心に少しばかり端唄はうたがうまいんだよ。まあ後で川甚へ行つたら、ゆつくり聞けるがね。」

「何を云うとるんぢや君、初對面の人に、そんな事を云はんでもいゝがな。」

と、山口は、靑黑い、むくんだ顏を迷惑さうにしかめたが、やがて髯だらけの頤を搖るがして、から〳〵と如才なく高笑ひをしながら、

「や、橘さん、お名前はかねてから承知致して居ります。江戶趣味の方では、野村君の先生ださうで。」

と、眼鏡の奧から、ぎよろりとした、一と癖ありげな瞳に愛嬌を含ませて、下脹れの頰へ深い皺を作つて、薄氣味惡くにこにこ﹅﹅﹅﹅して見せる。古ぼけた新銘仙の袷の上へ、紡績の綿入羽織を重ね、裾の綻びた小倉の袴にぴたんこ﹅﹅﹅﹅な薩摩下駄を穿いたところは、如何にも胡散臭くて、端唄を呻りさうな柄でもない。宗一は、同じ二本筋の帽子を冠つた學生のうちに、こんな連中のあるのが可笑しく感ぜられた。杉浦は隨分變な人間を友逹に持つ男だと思つた。

「杉浦さん、川甚などへ行かんと、橘さんに何處か下町の粹なところを、案内して貰うたらどうぢや。」

「いや、つまらん、つまらん、やつぱり柴又へ行かうよ。今から運動に彼處まで出かけると、時間の都合もいゝよ。お前の端唄を聞く代りに、橘君がいゝ物を聞かせるさうだ。」

杉浦は山口に限つて、特に「お前」と云ふ代名詞を使つた。

「へーえ、そりや賛成ぢや。わしの端唄は、橘さんの前などぢやとても出やせんよ。」

「まあ、そりやどうでもいゝがな。―――橘君、君先刻の約束を履行するんだぜ。」

と、杉浦は面白さうな、根性の惡さうな眼つきをした。

「約束ツて何を。」

「Der Brief von Odawara.」

かう云つて、杉浦は、ふゝんと鼻の先で輕く笑つた。

やがて三人は、上野から海岸線の汽車に乘つて、金町へ向つた。丁度南千住の停車場へ近づいた頃、山口は小塚原の向うを眺めて、

「杉浦さん、あすこが吉原だぜ。」

と、耳打ちをし乍ら日本堤を指した。

「どれ、何處が。」

「彼處に見えとるがな、土手どてが日本堤ぢや。あの土手がズウツと續いて、彼處に高い家が澤山見えとるだらう。あれぢや、あれが、吉原なんぢや。晚になると、燈がついて、綺麗だぜエ君。」

山口は綺麗でたまらないやうな聲を出した。

「お前の行く家は何處なんだい。」

「そりや此處から見えん。―――何處と云つて、一軒にきまつとる譯ぢやないが、わしれから當分中米なかごめへ行くと極めた。いゝ華魁おいらんが居るぜエ。」

「それで一と晚にいくら懸るんだ。」

「三兩!」

と、山口は右の手の指を三本、ぴたりと眉間へ押しつけながら、

之丈これだけあれば大丈夫ぢや。一兩でも二兩でもやつて行けるが、まあ三兩ぢや。」

杉浦は面白半分、冷かし半分に、妓樓の内幕だの、遊興の形式だの、詳しい質問を試みて、山口の經驗談を聽いた。吉原ばかりか、品川でも、新宿でも、千住でも、洲崎でも、山口の足を踏み入れない所はなかつた。大槪一週間に二度ぐらゐ遊ばなければ、とても辛抱し切れないと云つた。惚れられて金をみつがれた話や、夜中に振られて相方あひかたを追ひかけ廻した話や、恰も深奧な哲理を語るやうに、委曲ゐきよくを盡して說明した。

「そんなに道樂をして、それでお前は、よく頭を壞さないな。學校の成績だつて、あんまり惡くないぢやないか。」

杉浦はしまひに感心して、こんな事を云つた。

「一向壞さんのぢや。却つて辛抱しとる方が、氣がむしやくしや﹅﹅﹅﹅﹅﹅していかんのぢや。女郞買に行つて來た朝などは、頭がカラツとして、私やせいせい﹅﹅﹅﹅するがな。」

「けれども萬一梅毒にでも罹つたら、頭だつて惡くなるだらう。」

「いや、梅毒なんて、ありや何でもないんぢや、あれ程容易く直る病氣はないんぢや。鼻が落ちるなんて、昔の事なんぢや。それにあの病氣は免疫性で、一度罹つたら二度と移らんから、植ゑ疱瘡も同じ事ぢや。」

「何も、さう俄にえらい鼻息にならなくつてもいゝよ。―――お前も梅毒をやつた事があるかい。」

「うん、事に依つたら、やつとるかも知れんなう。どうも時々、腰が痛んでならんから。」

山口は急に眼鏡を曇らせ、陰鬱な顏をして、腰の廻りを平手で撫でた。

其れから其れへと、二人の問答は、金町の停車場へ着いて、帝釋天たいしやくてんへ行く畑道まで續いた。健全な家庭や寄宿寮の生活で、夢にも聞く事の出来ない、耳馴れぬ卑しい話を、みだりがましい言葉を使ひながら、山口は平氣で喋舌つた。彼の口にかゝると、女と云ふ物は、唯もうみぐるしい慾望の對象のやうにしか取れなかつた。戀とか、憧れとか、―――若い人々の感情を湧き立たせて、心を恍惚の境に運ぶ淸い貴い樂しみは、此の男の胸に微塵も潜んで居ないらしかつた。若し放蕩の結果が、誰に對しても山口と同じやうな、すさんだ人間を作らせるならば、放蕩程忌まはしい物はない、と、宗一は思つた。

あゝ美代子、美代子、………それにつけても美代子はどうして居るであらう。宗一は二人の會話を聞きながら、時々追ひかけられるやうな、切ない、せはしい氣持に襲はれて、重い溜息をついた。山口の樣な人間は論外として、世の中に自分程淸い心を以て、戀人を慕ふ男はあるまい。自分程熱烈な愛情を戀人に注ぐ人はあるまい。美代子が生涯の夫と賴んで、自分程確な、十分な幸福を與へ得る人は、斷じて外にない。萬一、二人が別れ別れに生きて行くやうな事になつたら、自分にも、美代子にも、永久に不仕合せな月日が纏はるであらう。此のくらゐ明白な利害問題に、世間の親が眼をくれないで、敢て其の子を死地に陷れるやうな、不自然な、不合理な結婚を强ひる理由が何處にあらう。親としては迂闊とも、疎忽とも、不深切とも、云ひやうのない話である。自分はどのやうな障害を排しても、必ず美代子と結婚しなければならない。………

「お前はいつ頃から、女を買ひ始めたんだい。」

と、杉浦は、帝釋天の境内を後へ拔けながら、相變らず問答を繼續して居る。

わしは中學を卒業した年からぢや。―――杉浦さんは、まだ一度も覺えがないのかな。」

「うむ。………學校の連中で、女を知つてる奴はあんまりないだらう。」

「橘さん、君はどうぢや。下町の女は綺麗だからなう。」

「僕だつてまだピユーアだよ。下町とか、江戶趣味とか云ふと、いかにもみだらな風俗のやうに思ふけれど、純粹の東京人の家庭は、そりや嚴格なもんだよ。一般に都會の男や女は、田舎よりズツト行儀がいゝやうに思ふ。」

と、宗一は眞面目な考へを述べた。

「さうかなう。男でも女でも、ピユーアな奴と、ピユーアでない奴とは、私や一と眼見れば大槪判る。まあ君方は、ピユーアだらうよ。―――一遍關係すると、女なんて者は何ともなくなるから不思議ぢや。」

「さうだらうなあ。女と云ふ物を知つて見ると、あのくらゐ馬鹿らしい物はないさうだからなあ。」

と、言ひながら、杉浦はステツキをクル〳〵と空に廻して、眼の前に現はれた土手の頂きへ活潑に馳せ登つた。幅廣はゞひろの中川の水が帶のやうに悠々と流れて、すゝきや葦や生茂つた汀に、「川甚」と記した白地の旗がぱたぱた鳴つて飜つて居る。川向うの見渡す限り田圃の打ち續いた葛飾の野を吹き越えて、强い風が一度に堤へぶつかつて、三人の袴の裾をすくふやうにする。遙に晴れた東の空には、筑波山が靑く鮮かに泛んで居る。

「何處か川緣の座敷は空いて居ないか。」

と、杉浦は先へ立つて川甚の玄關へ入つて行つた。時々ボートで中川をさかのぼつて、此の家の川添ひの座敷に一盞いつさん傾けるところから、女中はみんな杉浦の顏馴染であつた。

「あゝ私や草臥くたびれた。腰が痛うてどうもならん。」

山口は一と間へ通ると、早速大の字に反り返つて、

「時に杉浦さん、今來た女中はちよい﹅﹅﹅と好いがな。私やあゝ云ふ、ぽちや〳〵太つた女が大好きぜエ。」

と、橫着さうに頰ぺたを疊に押しつけた。

一と風呂浴びて、三人が膳の前へ坐つたのは四時近くであつた。短い日脚がもう暮れかゝつて、夕燒けの光が、川波の尖つた面や、帆掛船の肩先を、斜にあかあかと照した。豪酒家の杉浦は、肴の來ないうちから、ちびり〳〵と杯を乾して、頻りに二人へ進めた。

「橘君、君と飮むのは初めてだ。山口は下戶で話にならないんだから、君一つ、大いに飮んでくれ給へ。」

「ありがたう。僕の親父は酒飮みだから僕も今にきツと强くなるだらう。」

かう云つて、宗一はなみ〳〵と注がれた杯の緣を唇にあてた。一年に二度か三度、何かの會合の時より外は、めつたに手にしない杯中はいちゆうの酒の色を、かう云ふ席でしんみり﹅﹅﹅﹅と眺めるのは今日が初めてゞ、濱町の家とは非常に緣の遠い、怪しからぬ境遇に身を置きながら、親の許さぬ罪を作りつゝあるやうな氣持もした。一滴を舌にふくんで、グツト飮み下すと、熱い液體が湯上りのはらわたへ燒けるやうに滲み通つた。何だか、日本橋邊の、始終親父の飮む酒よりも惡いやうに感ぜられたが、其れにも拘らず、杉浦はうまさうに幾杯となく傾けて居る。

蒲燒、鯉こく、すつぽん煮、―――そんな料理が順々に三品程、膳の上に列べられた。

「なんと杉浦さん、此の鯉には鱗が着いとるがな。」

鯉こくの碗をすゝりながら、山口はこんな事を云つて、女中に笑はれて居る。さつきから漸く一杯か二杯飮んだらしいのに、顏から顎まで眞赤に染まつて、眼ばかりぱちぱち光らせて居る。

「お前の顏は醉ふと猥褻わいせつになるなあ。そんな顏は土手の馬肉屋へでも行かなければ、あんまり轉がつて居ないぜ。」

杉浦がかう云つたので、一座はどつと吹き出した。見た事もない光景を好い加減に想像して、時々圖星を刺すやうな知つたか振りの警句を吐くのが、杉浦の得意とする所であつた。

いつしか日はとつぷり暮れた。暗い川面の方には、ぴちやり、ぴちやりと船の橫腹を叩く波の音が聞えて、ぎい、ぎい、と鳴る櫓聲と共に、闇を行き交ふへさきの灯が、しづかにする〳〵と滑つて居る。宗一は久しぶりの醉心地にうつとりとなつて、緣側の敷居に足を投げたまま、戶外おもての景色を凝視した。成らう事なら、二人の前に自分の戀のいきさつを打明けて、一緖に泣いて貰ひたいやうな氣分にもなつた。

「かう云ふ晚に月があると猶いゝんだがな。………江北江南無限の情だね。」

と、杉浦は杯を片手に、眼を低くして庇の外の空を仰いだ。

「山口、もうそろ〳〵歌が出てもいゝ時分だらう。」

「橘君が何か聞かせると云ふんだらうがな。」

「まあ、お前からやるさ。お前の歌だけは、全くうまいんだから、僕が保證するよ。」

「さう褒めんでもやるよう。」

山口は琵琶法師のやうに柱へ凭れて眼を閉ぢ、少し仰向き加減に頤を突き出して、えへんと咳拂ひをしたが、「それぢや立山たてやまを一つ。」と、口の中でことわつて、「あ、しやん、しやん。」と口三味線で唄ひ始めた。

「峰の白雪麓の氷、もとは互に隔てゝ居れど………」

歌の文句も、節廻しも、宗一には此れが山口の咽喉から出るのかと驚かれる位、綿々の恨みを惹いて、美しく見事に響いた。殊にかんの調子に高まる刹那の、りんりんと張つた聲の立派さ。更に細く微な錆聲さびごゑに轉じて、長く長く顫はせて行く味ひの深さ。態度と云ひ、技巧と云ひ、堂々たる藝人のるゐさんばかりで、到底佐々木の詩吟などの比ではなかつた。唄ひ終る迄、杉浦も宗一も、耳を垂れ、息を凝らし、あたりは水を打つたやうに靜かであつた。

「ちよいと、唯今はどうも有難うございました。誰方どなただかほんとにお上手でいらつしやいます事ね。彼方あつちへも好く聞えるんでございますよ。」

かう云つて、例のぽちや〳〵太つた女中が座敷から駈け込んで來た。

「さうら〳〵、どうだ山口、いつその事みんな出しちまつたら。」

「よし、わしやかうなると幾許いくらでもやる。」

山口は又眼をつぶつて、自分の調子に聞き惚れるやうに、額を上げ、首を振りつゝ、今度は二上にあが新内しんないを唄つた。「墨田のほとりに住居して………」と、先づ最初から、魂をそゝるやうな美音を轉がすと、しん﹅﹅とした夜の河上に餘韻が傳はつて、遠い野末に住む人まで、耳を傾けるかとあやしまれた。古い端唄の「わしが國さ」「忍ぶ戀路」「秋の夜」など、後から後からと、山口は聲を絞つて唄ひつゞけた。

「ほんとにねえ、あなた書生さんのやうぢやありませんねえ。」

と、女中は幾度も感嘆した。

三人とも、少し寒さを覺える程に興奮して、一座は何となく白けて了つた。杯の酒も冷たくなつて居た。

「おい、酒だ酒だ、熱いのを持つて來い。」と、杉浦は德利を高く翳した。

「時に杉浦さんの義太夫はどうぢや。此の頃ちつとは進步したゞらうがなあ。」

と、山口は藝事げいごとにかけたら師匠であると云ふやうな、つらつきをした。

ちツと﹅﹅﹅とは何だ。怪しからん。」

杉浦は直ぐと負けない氣になつて肩を聳やかし、上半身を妙にひねくらせて奇態なしな﹅﹅を作りながら、

「其の淚が蜆川しゞみがはへ流れたら………」

と、炬燵のさはり﹅﹅﹅を語り出した。薩摩琵琶とも淨瑠璃ともつかない、齒の浮くやうな節廻しに東北辯の訛が交つて、時々切なさうなきいきい﹅﹅﹅﹅聲を發したが、

「よう―――ふん、ふん、なか〳〵うまいぞ。」

と、山口が仔細らしく手をこまねいて感服して見せるので、當人はさも嬉しさうに相好さうがうを崩して語り通した。宗一は笑ふまいとしても、をかしさが込み上げて來て、吹き出さずには居られなかつた。女中も袂を口へあてゝ轉げながら逃げて行つた。

「どうしたんぢや杉浦さん、えらいうまくなつとるがな。」

と、山口は呆れたやうに眼を圓くして、馬鹿々々しく大げさな驚きの思ひ入れをしながら、

「………其の淚がア、チン、蜆川へエ、ながアれたアアらア、小はるウ、………彼處邊はうまいもんぜエ、いや、もう昇之助そつくりぢやがな。」

「おい、おい、今度は橘の番だぜ。女中も居ないし、丁度いゝから、先刻の約束を履行するんだ、―――まあ、改めて一杯やり給へ。」

杉浦は獨りで一升近くの酒をあふつて、非道ひどく酩酊して居るらしかつた。それでも呂律ろれつの亂れたり、體のよろけたりするやうな醜態を演ぜず、泰然自若として杯を宗一にさした。

「君、君、僕は決して人の祕密を口外するやうな人間ぢやないぜ。山口だつて、隨分油斷のならない男だが、お喋舌りの方だけは大丈夫だよ。僕が請合ふよ。話し給へ、話し給へ。」

「何か知らんが、そんなに隱さんと、橘さん話したらどうぢや。君のやうな男は、女子に惚れられるに極まツとるんぢや。今に道樂でもして見給へ、其りや必ず持てるぜエ。」

「さうおだてなくつてもいゝさ。」と、宗一は苦笑して云つた。

「いや別に煽てやせんがな。君なんぞ、きツと純潔な女子を慕うて居るんだらうが、わしにだつて、其の氣持は解つとるよ。」

宗一は二人の追求をすげなく拒絕する氣にはなれなかつた。山口のやうなさま〴〵の女を知り盡した人間に、自分の戀を說明して、何か其れに關する意見を叩いて見たくもあつた。山口が實驗の上から齎した女性に對する解釋も、一應參考にする價値はあらうと思つた。

「そんなら話をしよう。」

かう云つて彼は何か込み入つた用件を談ずる事務家のやうな口吻こうふんで、一部始終を丁寧に語つて聞かせた。

「………それで、僕にはどうも女の心持が呑み込めないで困るんだよ。さう云ふと可笑しいが、本當に僕を戀ひ慕つて居るものなら、何の積りで今日のやうな手紙を寄越すんだらう。自分の戀を犠牲にしても親の命令に服從するやうな柔順な考へなのか、それとも、實際僕を戀して居ないで、今迄好い加減に飜弄して居たのか、つく〴〵判斷に苦しむよ。女と云ふ物は、男とは違つた心理作用を持つて居るんぢやないかと思ふ。」

宗一は話の結末に、こんな疑問を附け加へて、

「兎に角、僕はもう一度會つて見たいんだ。會ひさへすれば、本人の心もよく解るし、ほんたうに僕と結婚したい了見なら、親父に賴んで見ようとも考へてゐるんだ。しかし、向うで手紙を寄越すな、面會には來てくれるな、と云ふんだから仕樣がない。戀はして居ても、結婚は出來ないと云ふやうな戀ならば噓だと思ふよ。」

「そりや、さうに違ひないな。………けれども女の頭と云ふ物は、案外徹底しないもんだから、戀と結婚とを別々に考へて、一向矛盾を感じないんだらうよ。好きな男と添ひ遂げられず、親の取り極めた婿を貰つて、憂い目辛い目をしながら、蔭でめそ﹅﹅〳〵と失戀の悲しみに泣くやうな境遇を、却つて深刻だと思つてる女が澤山あるよ。それも一生泣き通すならいゝが、大槪結婚すると昔の事を忘れて了つて、直に現在の亭主や子供が可愛くなるんだからなあ。」

かう云つた杉浦の言葉は、如何にもませ﹅﹅て居て、世馴れない靑書生の述懷のやうではなかつた。宗一は美代子に限つて、「結婚すると昔の事を忘れちまふ」やうな、輕薄な女でないと、腹の中で辯解した。

「橘さん、何とかして小田原へ行つて、其の人に會へんものかな。」

と、山口が口を開いた。

「訪ねて行つたら、まさか會はない事はないだらうよ。唯あゝ云ふ手紙が來て居る位だから、會つたところで、十分話をする機會はなからうと思ふ。それに女の方で來るなと云ふのに、此方から出かけて行くのも意氣地がないからね。」

「いや、構はんから、君小田原へ行き給へ。場合に依つたら、非常手段を取つて、駆落をするんぢや。」

「そんな事も考へて見たが、とても實行する勇氣はないよ。第一、女が承知しないだらう。」

「いや、する、する。承知するに極まつとる。承知しないやうなら、君に惚れて居らんのぢや。―――ツルゲネーフのルヂンと同じことぢや。」

「山口がルヂンを知つてるのは、ちよいとをかしいぜ。」

杉浦はこんな時でも、冷笑の種を見逃さなかつた。

「駆落をせんでも、半日ばかり何處かへ誘ひ出して、其の女と關係を附けて了ふんぢや。其れが一番早道ぢや。さうなつたら、女と云ふものは、決して男を忘れやせんがな。」

「そんな事は絕對に嫌だよ。」

と、宗一は少し不快な調子で答へた。

「嫌ぢやと云ふなら止むを得んけれど、其れが一番早道だぜエ。會ひに來てくれるなとか、手紙を寄越すなとか云ふのは、つまり未だ關係が附いて居らんからなんぢや。關係が附いて了へば、女子はもうおしまひぢや、何でも男の云ふ事を聽くんぢや。」

「馬鹿を云へ、何でも云ふ事を聽くツて、相當の家の娘を捉へて、そんな事が出來るか出來ないか考へて見ろ。」

杉浦が橫合から、荒々しい聲で憤慨して云つた。

「そりや君の方が解つとらんのぢや。」

山口は罵られてカツ﹅﹅とした樣に、杉浦の方へ向き直つて眞赤になつて喰つてかゝつた。

「………相當の家の娘にしたところが、惚れてる男から持ち込まれゝば、肌を許すに極まつとるんぢや。寧ろ許す方が道德上當然なんぢや。若しも許さんやうな女子なら、私や薄情だと思ふ。實際男に惚れて居らんのぢや。」

「だからさ、だからさ、まあ僕の云ふ事を聞け。………」

と、杉浦は激しい見幕で、山口を制しながら、

「………そんな事はお前に云はれんたつて解つて居るさ。女と云ふ者は、直に男に誘惑され易いんだから、何もお前が橘をけしかけ﹅﹅﹅﹅て、好んで娘をキズ者にするには及ばんぢやないか。」

「いやいや何も好んでキズ者にさせると云やせんぜエ。君は今誘惑と云うたが、そりや成る程誘惑かも知れん。知れんけれども誘惑した後の結果を見給へ。其の爲めに二人とも望み通り結婚が出來て、幸福な家庭を作れたらどうぢや。好い加減に弄んで、捨てゝ了ふとは譯が違うとるぜ。決してキズ者になんぞなりやせんがな。」

「キズ者にならない事があるもんか。一度關係したら最後、萬一其の男に捨てられやしないかと云ふ不安と弱點とが娘に着き纏はつて、處女としてのプライド純潔ピユーリチーも失つちまふぢやないか。たとへ一時でも、結婚前に身を汚せばキズ者ぢやないか。此の位娘に取つて可哀さうな事はないぜ。それでも其の男と首尾よく一緖になれゝばいゝが、萬々一なれなかつたらどうするんだ。よくも道理を考へないで、惡い事ばかり人に敎へて、それでお前はいゝ積りなのか。」

威丈高になつて、相手を睨み付けながら、杉浦は滔々と反駁した。二人とも肝心な宗一を其方除そつちのけにして、暫く夢中で云ひ爭つた。

「君のやうな口の逹者な者に、理窟を云うても抗はんが、私の云うた事は、必ず間違つとりやせん。」

結局山口は銳く云ひ捲くられて、こんな負惜しみを云つて默つて了つた。

「お前のやうな惡黨は始末に困るよ。」

杉浦はかう云つて、意氣揚々と便所へ立つて行つた。

「ほんとに口の逹者な奴ぢや。私や議論をすると、いつでも杉浦が憎うてならん。あの馬鹿者めが!」

と、山口は相手の後姿を見送りながら、無念の齒嚙みをした。

其の晚、川甚を引き上げたのは九時過ぎであつた。山口は一文も持つて居ないので、四円足らずの勘定を、杉浦と宗一とが分擔した。

「橘さんはいらつしやいますか。電話でございます。」

と、寢室のドーアを開けて、呼び覺ました小使の聲に、宗一はふと眼を覺した。

「何、電話?」

かう云つて、夜具を捲くつて立たうとしたが、昨夜の川甚の酒が未だ頭に殘つて居て、彼はふら〳〵と昏倒しさうな懈怠けだるさを覺えた。二日醉ひの結果、思はず寢過ごしたものと見えて、彼の周圍の蒲團は殘らずきれいに疊まれてあつた。枕許の時計は、もう十時半である。顏も洗はず、寢間着の上へ袴を着けて、彼は惶てて電話口へ飛んで行つた。

「もし、もし、あなた宗ちやん………」

なまめいた女の言葉が、受話器から耳の奧へ傳はつた時、半分寢惚けて居た彼の意識は一瞬間にハツキリと冴え返つた。

「あなた宗ちやん、………あたし誰だか判つて?」

「うむ、判つた、判つた。」

「あのね、あたし今本郷三丁目の自働電話に居るのよ。今朝早く内證で小田原から出て來たの。………宗ちやん此の間の手紙御覽になつて、………」

「あゝ」宗一はなつかしい聲音をしみ〴〵と味はふやうに耳を傾けた。此の聲、此の人に自分は幾日憧れたであらう。………普通の年頃の女よりはやゝ落ち着いて、テキパキと明瞭に發音する物の云ひ振りが、電話では殊に著しく感ぜられ、美代子の姿が髣髴はうふつと浮んで來るやうであつた。

「それでね、今日中に是非歸らなくツちやならないのだけれど、ちよいと﹅﹅﹅﹅でいゝから、あたし宗ちやんにお目に懸りたいの。どうにか時間の都合がつかなくツて?」

「そんならぢきに行くから、其處邊そこいらに待つて居てくれないか。」

「だつて學校があるんでせう。」

「ナニ休んだつて構はないんだ。」―――かう云はうとして、彼は電話の傍に腰かけて居る寮務室の委員の手前を憚り、又一つには男としての鷹揚な態度を失ひ過ぎるやうにも思つて、

「いや、別に差し支へない。」

と、答へた。

「さう、濟まないわね。それぢや四つ角で待つて居てよ。」

「うむ、左樣なら。」

電話を切ると、彼は楊枝やうじを咬へて、洗面所へ駈けて行つた。

やつぱり美代子は、宗一を戀して居るのであつた。齒を硏きながら、口をすゝぎながら、彼は天から授かつた幸福な今日の一日を如何にして送らうかと頭を惱ました。此の機會を利用して、結婚問題の解決方法を講じなければならないと云ふ、實際的な考へよりも、先づ第一に二人で手を携へて、喜び合ひ勇み合ふ光景の想像に心を躍らせた。

いつものやうに水風呂に漬かつて寢室へ戾つて來ると、行李の底から、取つて置きの薩摩がすりの綿入に羽織を引き出して、其れを纏つた。袴も先日濱町から貰つて來たばかりの、ひだの整つた小倉の大名縞の餘所行きの方に穿き更へた。戶外おもてへ出ると、昨日と同じ上天氣で、心持風が立つて居た。もう二三日の後に近づいて居る冬の時候を想はせるやうな、肌寒い空氣がうらゝかな日射ひざしの裏に潜んで居た。うれしいやうな、悲しいやうな氣を起させる日であつた。

萬事を當人に打つかつてからの成行に任せて、と、何等の方針も考へずに、彼は本郷通を眞直ぐにてく〳〵步いた。長らく照りが續いて、鐵板の如く乾いて、堅くなつた往來の地面には、小石の粒がびやうを打ち込んだやうに埋まつて、無數に頭を並べて居る。そんな物を宗一は無心に眺めた。殆ど生活の目標を失つて居た昨日の悲觀狀態から、急に希望に充ちた光明世界へ浮び上つた喜ばしさに、半分は精神の爽快を覺えながら、二日醉ひの胸のつかへと、蟀谷の痛みが、全く拭ひ取られないのを、彼は忌まはしい事に思つた。尤も其れは僅かの間で、やがて美代子の姿を見たならば、忘れられるに違ひないであらう。

勸工場くわんこうばの前まで來ると、一町ばかり向うから、眼まぐるしい通行人の間を避けて、女はちら〳〵と笑顏を覗かせながら、近寄つて來る。

「どうも暫く。」

と、丁寧にお辭儀をして、宗一の前に立つた時、いろいろと苦勞の種を訴へて寄越した程、美代子は打ち萎れても居なかつた。却つて頰のあたりは肉が附いて、赤みがゝつた、元氣の好きさうな血色に見えた。あらい大島の龜甲絣のつゐの着物に、金春織こんぱるおりの白茶地に花丸模樣の丸帶を締め、銀の平打ひらうちを挿した高島田の風情は、もう結婚期に迫つて居る處女の資格として、男に對する相應な落着きと分別とを備へて來たやうに感ぜられた。宗一は自分より年嵩としかさになつて了つたやうな、物馴れた女の素振と、きらびやかな服裝に氣壓けおされて、輕い嫉妬を覺えながら、

「好く來られたね。―――ま、其處いらまで一緖に行かう。」

と、云つた。

「今日はあたしやつと﹅﹅﹅の事で出て來たの、手紙に書いた通り、此の頃はうちがやかましくつて仕樣がないの。それに此の間の宗ちやんの手紙ね、あれがおツ母さんに知れつちまつて、お前は宗ちやんと何か約束でもしたんだらう、なんて云はれて、散々叱られたもんだから、あたしもうやけ﹅﹅になつちまつたの。一昨日をとゝひ宗ちやんに返辭を上げた時なんか、何が何だか頭が滅茶苦茶で自分なんぞどうなつてもいゝと思つて居たのよ。」

美代子は、こんな事をすら〳〵と流暢に喋舌つた。

やけ﹅﹅になつたから、誰と結婚しようが構はないと云ふのかい。」

かう云ふ意味の反問をしようとしたが、適當な、圓滑な言ひ廻しが出來ないので、宗一は遠慮して了つた。いくらひいき﹅﹅﹅に考へても、自分に遠慮と云ふ氣分を作らせるだけ、女は人形町時代から見ると、多少態度が異なつてゐた。

會はないうちは、手紙の文句から推量して女の身の上を憐れんで居たのに、今は自分が憐れまれるやうな境遇に轉じた。女はどん〳〵思ひのまゝを喋舌つて行かうとするのに、男にはどうしてもそれが出來ない。何とかして今日一日の間に、此の不自然な關係を打ち破つて、昔の通りの親しみ易い間柄に復らなければならなかつた。

「かうやつて、步きながら話をして居ても仕樣がない。………」

湯島五丁目の停留場のところで、宗一はふと立ち止つて、

「何時頃に歸ればいゝの。」

と、優しく訊いた。

「八時ごろまでの積りで出て來たんだけれど、日一杯に歸ればいゝわ。」

かう云つて、美代子は今日の外出の口實を話した。幼い折の乳母ばあやが東京から尋ねて來て一泊したのを幸ひに、新橋まで送りがてら、ちよい﹅﹅﹅と出て來たのだと云つた。其れも父の不在を附け込んで、半ばは喧嘩腰で母に泣き着き、

「お歸りには私がステンシヨ迄お見送り申しますから、大丈夫でございますよ。」

と、乳母ばあやに助言して貰つて、漸く許されたのださうである。

「お父さんには内證だから、濱町へ寄るんぢやありませんよ。」

と、出しなに母からダメを押された事まで附け加へて語つた。

「そんなら、少しはゆつくり出來るんだね。」

宗一は一二臺の電車をやり過ごしながら、

「………上野の方へでも行つて見ないか。」

「えゝ、けど宗ちやんのお友逹に見付かりはしなくツて?」

「大丈夫だよ。家の者にさへ知れなければいゝぢやないか。」

「だつて、學校の方に見付かツちや嫌だわ。―――何かあたしの事を、お友逹にでもお話しなすつたの。」

美代子は臆病な眼つきをして、聞き咎めるやうに云つた。

「大丈夫だよ。」

宗一は同じ文句を繰返した。戀人に對しては、絕對に正直を守つて、微塵の祕密をも藏しまいとした心の誓ひが、もう破れて了つた。

「さう、そんならいゝけれど、時々手紙なんか上げたから、若しか知れやしないかと思つて、隨分心配しちやつたわ。ほんとに默つて居て頂戴ね。みだらな眞似をするやうに思はれると、嫌だから。」

かう云つた最後の一句は、恥かしさうな、消え入るやうに微かな聲であつた。

何處かへ行つて休むにしても、平生友逹と一緖に出かける「藪そば﹅﹅」や牛肉屋では、女が可哀さうである。立派な令孃、立派な學生と云ふ體面を保つに適當な、品のいゝ料理屋の靜かな座敷を擇びたかつた。家柄の正しい新婚の夫婦か、兄弟と間違へられても、素性の惡い野合やがふの男女のやうに見られたくない。………彼の蟇口がまぐちの中には、寄宿舎のまかなひへ支拂ふ可き十一月分の食料と、それから半月ばかりの小遣ひと、合せて十二三圓の金が、此の間母親から受け取つたまゝ手着かずに入れてあつた。兩親に隱して一時其れを融通しても、彼は女に肩身の狹い思ひをさせたくなかつた。

「此れをみんな遣つて了つても、何とかしたら又家から貰へるであらう。」―――こんな目算が、彼の胸の奧に潜んで居た。苟くも金錢問題に關して、今迄毛程のやましい行爲すら許さなかつた自分の良心が、女の爲めに譯なく鈍つて了ふのを、宗一は我ながら驚かれたのである。

「もう直きおひるだがおなかが減つて居やしないか。」

「いゝえ、ちつとも。―――もう少し步いたつて構はないわ。」

「しかし、どうせ何處かで飯を喰べなきやならないんだから………。」

かう云ひながらも、宗一は美代子に釣り込まれて、又そろ〳〵と步き出した。

平生父が宴會の歸りに、土產に持つて來る料理の折の燒印を想ひ浮べて、百尺ひやくせき、岡田、福井などゝ、彼は順々に考へて見た。藝者を呼ぶではなし、酒を飮むではなし、懷の金だけあれば十分であらう。土曜日曜ならば格別、木曜日の而も時間が晝間の事ゆゑ、下町の茶屋へ入つた所で、顏が會ふやうな恐れもあるまい。どうせ行くなら、父が昔放蕩を盡した柳橋の土地、なつかしい江戶の空氣の殘つて居る柳橋の、大川添ひの料理屋の離れ座敷が慕はしかつた。

「兎も角も兩國まで。」と云つて、松住町から電車へ乘らうとする時、

「宗ちやん、あなたは其方からお乘んなさいな。」

と、美代子はわざ〳〵彼と別々に、運轉手の臺の方から中へ入つて、五六人を隔てた席へ、澄まし込んで腰をかけたきり、成る可く言葉を交さないやうに側方そつぱうを眺めて、たま〳〵男の方から眼で笑つても、心付かない風を裝つた。其の樣子が、

「人ごみの中で、少しはあなたもお嗜みなさい。」

と、男を叱りつけるやうにしか取れなかつた。

「罪人ではあるまいし、何でそんなにビク〳〵する必要があるんだらう。」

と、宗一は思つた。

淺草橋で下りた二人は、暫く途方に暮れて彳んだまゝ、顏を見合はせた。

「何だか此方へ來ると濱町へ知れるやうな氣がしてならない。」

美代子は往來を見るのが恐ろしさに下を向いた。

「いつそ柳光亭へ行つて見ないか。なまじな所よりも、却つて居心地がいゝだらう。」

「さうね、あたし、何だかきまりが惡い。」

きまりの惡いのは宗一も同じであつたが、しひて女を勵まして、しも平右衞門町の柳の植わつた川岸かしどほりを、柳橋の方へ步いた。

天氣がいつの間にか曇り始めて、淡い、煙のやうな雲が、靑空に掩ひかゝつて居た。其れにも拘はらず、大川の水の色は飽くまでも濃く、川蒸汽の白波が、殊更鮮かに眼立つて居る。婀娜あだつぽい姿をした湯歸りの藝者が、二三人擦れ違ひざま、美代子の顏をふり返つて行つた。

柳光亭の門口には、きれいな俥が四五臺並んで居た。今しがた水を打つたばかりの、漆塗のやうに輝く玄關のたゝきを見ると、宗一は再び氣後きおくれがして、「書生の癖に生意氣な。」と女中に蔑まれさうに弱々しい心になつた。二人はひろ〴〵とした、玄關の前に立つて、案内を乞うたが、誰も相手にしてくれないのか、容易に奧から人の出て來るけはひ﹅﹅﹅はなかつた。いつそ此處から引き返して了はうかと思つた位、宗一は極りの惡い、落ち着きのない氣持に襲はれた。

「お客樣ですよ。誰か居ないのかい。」

暫くしてから、キビ〳〵した女の聲が聞えると、女中が一人ぱた〳〵と駈けて來て、二人の前へ中腰に蹲踞しやがんで、垂直に垂れた指の先を、ちよいと疊へ擦り着けながら、

「お二人さんでございますか。」

と、不愛想な顏をした。

玄關を上つて、左へ左へといくつも折れ曲つた細い廊下の盡きたところで、女中が襖を開くと、其處は誂へ向きの大川添ひの小座敷であつた。靑い靑い、たつぷり﹅﹅﹅﹅とした水面が、窓より高く漫々と膨れ上つて居るのを見ると、二人共窮屈な胸のこだはり﹅﹅﹅﹅がサツパリして、少し興奮したやうな嬉しさを覺えた。

「お風呂が沸いて居りますが、お召しになつては如何でございます。」

女中が茶を出しながら訊いた。

「いや、僕はいゝ。」

「あたしも澤山よ。」

美代子は半分宗一の方を向いて答へた。

「左樣でございますか、丁度空いて居りますから、お二人さんでお召しになりましたら………。」

かう云つて、女中は其の時始めて笑つた。

宗一は、いつか知らず鷹揚な、大膽な心になつて、水に近い柱に凭れながら、片手を窓の閾に伸ばして、どつしり﹅﹅﹅﹅とあぐらを搔いた。もう斯うなれば、女の爲めに不正の金を遣はうと、兩親を欺かうと、其れに換へ難い歡樂の蜜をすゝる事を辭さなかつた。こんな時に女が駆落をしようと云ひ出せば、彼は決していなみはしまい。地位も名譽も捨てゝ、どんな野の末へでも、逃げて行くであらう。

「おあつらへ」を極めて、女中が退つて了ふと、美代子は手持無沙汰のやうに行儀よく座蒲團の上へ畏まつたまま、默つて居た。お互に面と向ふのが工合が惡く、川の景色を眺めるより外仕樣がなかつた。宗一は、何か話をしなければならない場合に迫りながら、まだ本問題に入るのは早いと考へた。さうして、

「一體二人は何に見えるだらうな。」

と、さも打ち解けた、空々しい聲で云つた。

「さうね、………きつとをかしな者に見られて居るんだわ。お二人さんでお風呂をお召しになりましたらなんて、好くあんな事が云へるもんだわね。」

「それでも未だ此處いらは好い方だよ。僕の友逹なんか女と一緖に森ケ崎の鑛泉へ行つたら、賴みもしないのに眞ツ晝間夜具蒲團を出されて閉口したさうだ。」

「其の女と云ふのは、女學生なの。」

「うん。」

「宗ちやんのお友逹には、そんな方が澤山あつて。」

「澤山と云ふ程でもないさ。やつぱり僕等と同じやうな境遇になれば、仕方がないぢやないか。別段惡い事をするんぢやあるまいし………」

宗一は自分と美代子とを慰めるやうに云つた。

剝身むきみ辛子からしあへ﹅﹅に、猪口ちよこと割箸を載せた平たい膳が二人の前へ据ゑられた。女中が盃洗はいせんだのお銚子だのを運び込んで來るのを見ると、宗一は何となく、酒の爲めに此の場合の神聖を汚されるやうに感じた。徹頭徹尾、今日の對談は眞面目で通したい。少しも不純な無禮な態度を以て女を遇すまい。彼はさう云ふ考へから、絕對に醉を買はない覺悟であつた。それでも、

「まああなた、お一ついかゞでございます。」

と、女中に進められて、斷りを云ふのが面倒臭めんだうくささに、

「あんまり飮めないんだから、此れぎりにして、後はサイダでも貰はうかな。」

と、彼は最初の一杯を淸く受けた。

「お天氣が大分怪しくなつて參りましたね。今日はお酉樣とりさまですのに、降らなければ宜しうございますが。」

女中はお酌をすると暫く其處へ坐つて、美代子の服裝を流眄ながしめに視ながら話しかけた。

「あゝ今日はお酉樣か、もう直き正月だな。」

「ほんとに嫌でございますねえ、年ばかりどん〳〵﹅﹅﹅﹅たつて了ひまして………。」

未だ十二時頃であるのに、戶外は夕暮のやうに暗くなつて、向う河岸の百本杭のあたりには蒼白い靄が籠つて居た。兩國橋の電車の響きが水の上を傳はつて、始終轟々と呟くやうに聞える。空には、低い鼠地の雲が一面にはびこつて、今にもぽつり、ぽつりと來さうである。時々冷い風がこつそり袂の裏へ吹き込んで、不意に肌をぞウツとさせる。

平生寄宿舎のまづい賄を喰ひ馴れた宗一には、久し振でかう云ふ家の料理を味はふのが一つの喜びであつた。彼は寒さと興奮とに顫へた手先で、お椀の蓋を取つて、松茸のかをりの漂ふ暖かい露を吸ひながら、柔かいえび糝薯さんしよと、輕いきすの肉を舌へ含んだ。それから、口取の蒲鉾に添へられた針魚さより雲丹燒うにやきだのしぎたゝき﹅﹅﹅だのを、珍しさうに突ツついて、

「美代ちやん、君は白いお刺身が好きだツたぢやないか。」

と、刺身の皿へ眼をつけて云つた。

「えゝ、あたし後で、御飯の時に頂くわ。」

「さうだね、もうそろ〳〵御飯にして貰はうか。」

かう云つて、宗一は立つて行かうとする女中の後から、「すぐでなくても好いんだから、呼んだら持つて來てくれ給へ。」

と附け加へた。

再び、さし向ひになつた二人の座敷に沈默が來た。お互に此れから語り出すべき事件を持つた儘、其れを控へて唇を嚙んだ。

「美代ちやん。………此の間の手紙ね。」

と、男の方から口を切つたのは、稍暫くした後である。

「えゝ。」

と云つて、美代子は體が凝結したやうに堅くなつた。兩手で握り緊めた膝の上のハンケチに眼を落しつゝ、肩を崩して、一遍忍びやかにスウツと溜息をしたのが餘所目にもいちじるしかつた。男は「可愛い指の恰好だな」と、いちごの汁に滲みたやうな女の紅い手先に見惚れて、指輪の彫の模樣を判じるともなく眺めながら、

「あれで見ると、君はお父さんの言ひ附け通りになる積りかい。決して僕は、どうのかうのと云ふ譯ぢやないんだから、正直な考へを、遠慮なく云つてくれないか。僕は唯、君の本當の考へさへ解れば、其れで滿足するんだから。」

「あたし、あの手紙の事で、是非宗ちやんにお目に懸りたいと思つて、今日やつて來たの。實は一昨日家であんまりやかましい事を云はれたもんだから、あたしやけになつちまつて、あんな事を書いたんだけれど、後で宗ちやんが怒つていらツしやるだらうと思つて、氣になつて氣になつて、仕樣がなかつたのよ。だから、是非お目に懸つて、譯を話してあやまらなければならないと思つて居たの。ほんとに濟まなかつたわね。あたし、つく〴〵自分を馬鹿だと思つてよ。」

いざ喋舌り出すと、女は又雄辯であつた。宗一は敏捷な言ひ廻しに眩惑されないやうに、要所々々に心を留めて聞き終つた後、

「そんな事は、怒るも怒らないもないよ。………口に出すのは初めてだが、僕は美代ちやんを戀して居る。………」

かう云つて、自分の唇が洩らした大膽な言葉に、自らをのゝきながら語り續けた。………

「そりや美代ちやんだつて、氣が付いて居るだらう。………僕は出來る事なら、君と結婚をしたいと思ふ。君の家でも、僕の家でも承知してくれなかつたら、已むを得ないけれど、若し兩方の親が許したら………僕の所へ來るなり、外へ嫁に行くなり、美代ちやんに撰擇の自由が與へられたら、君は僕と結婚をしてくれまいか。」

「宗ちやん、そりや本當のこと?」

美代子は、低い、熱心の籠つた聲で、力强く念を押した。

「うむ。………」

「あたしのやうな者を、そんなに思つて下さるのは勿體ないけれど、宗ちやんなんか、いくらでも立派なお嫁さんを貰へるぢやありませんか。………宗ちやんはまだ、家の事情を詳しく御存知ないんでせう。あたしはほんとに不仕合せな人間なのよ。此の間から、いつそ死んで了はうかと思つた事が度々あるの。先逹せんだつて手紙に書いて上げた結婚の話なんぞ、あたしは嫌で嫌で仕樣がないんだけれど、此の頃は每日のやうに責められるの。」

ぽたり、と、女の手の甲へ淚が落ちたかと思ふと、續いて二三滴、ぱらぱらと膝へこぼれた。

「君が一緖になつてくれる氣さへあれば、そんな嫌な所へ行かないでも、どうにかなる話ぢやないか。美代ちやんさへ承知なら、僕は明日にも親父に賴んで、小田原の方へ至急に相談を持ち込んで見よう。是非とも美代ちやんを、私の方へ下さいツて、折入つて懇望したら、君のお父さんだつて、まさかいかんとは云ふまいと思ふ。僕は今まで親父に向つて、此れツぱかりも無理を云つた事はないんだから、一生に一度の願ひだと云つたら、親父だつて、屹度其のくらゐの事は聞いてくれるに違ひないんだ。………」

「宗ちやんの氣持はよく解つて居ますけれど、母はあたしに養子を貰つて、一緖に分家をする積りなんだから、とてもそんな譯には行かないわ。若しも宗ちやんが一人息子でなければ、そりや何とでも考へ樣があるけれど、………だから、後生だから、あたしの事はあきらめて下さい。其の代り、親が何と云つても、あたしは一生夫を持たずに通して了ふわ。それで宗ちやんが、可哀さうだと思つて下されば、滿足するわ。」

「そんな事が出來るもんぢやない。」

「いゝえ出來ますとも、自分の決心さへ堅ければ出來ない筈はないわ。若しか出來なかつたら、死んで了ふわ。」

「けれども、其れではおツ母さんに濟まないぢやないか。おツ母さんは君一人を老先の賴りにして居ればこそ、普通ならば嫁にやるところを、わざわざ養子を貰つて分家させて、一生君に懸らうと云ふ考へなんだらう。美代ちやんの一身に間違ひがあれば、おツ母さんがどの位失望するか、僕よりも君の方がよく解つて居なければならない。え、さうぢやないか。かう云ふと失禮だか、君とおツ母さんが居なかつたら、小田原の家は闇になるんだぜ。」

宗一はかう云つて、相手の返辭を待つたが、美代子は突伏して聞いて居るばかりであつた。

「………若し獨身で通すとか、死ぬとか云ふのが僕に對する義理だてなら、止めてくれ給へ。僕は美代ちやんやおツ母さんの不仕合せを見せられて、決して好い心持はしないから。其れよりか立派な人を婿に貰つて、夫婦でおツ母さんに孝行を盡してくれた方が、僕に取つてはどんなに嬉しいか知れやしない。―――君はさう考へないかい。美代ちやんが其れを納得してくれゝば、僕だつて立派に思ひ切る。」

最後の言葉を吐くと同時に、男も危く歔欷しやくり上げさうになつて、濕んだ聲が鼻につまつた。

「宗ちやん、そんならあたし、あなたにお願ひがあるわ。」

美代子は何か決心したらしく、すつかり泣き止んで、ハンケチでおもてを拭いて、紅く脹れた眼を男の顏に注いだ。

「………いろ〳〵勝手な事ばかり云つて、濟みませんけれど、そんなら兎に角、今宗ちやんの仰しやつた通りにして下さる譯には行かなくつて。」

「僕の云つた通りツて、どうするのさ。」

「駄目かも知れませんが、宗ちやんのお父さんから、小田原の方へ相談をして見て下さるやうに。………母は是非とも分家をさせたいのでせうけれど、宗ちやんの所へ行くならば、もと〳〵親類の間柄だし、いつでも會ひたい時には會へるんだから、おツ母さんだつて他人に子供を取られるのとは氣持が違ふだらうと思ふわ。濱町の叔父さんさへ御承知なら、どうにでもおツ母さんの安心が出來るやうにして上げられるわ。小田原に居るのが嫌なら、東京へ引き取つてもいゝわ。一體あたしに養子を取らうと云ふのは、おツ母さんだけの考へで、お父さんは、あたしが嫁に行かうと、婿を貰はうと、おツ母さん次第にする積りなのよ。だから、おツ母さんさへ納得すれば大丈夫なの。」

「そりや成る程、おツ母さんとしたら、それでいゝかも知れないが、いゝからと云つて、世の中の事はさう易々と實行出來るもんぢやないよ。兎に角小田原に立派な家があるのを打ツちやり﹅﹅﹅ぱなしにして、たとへ親類であるにもせよ、娘の嫁入先へ附いて行つて、おふくろが厄介になれるかなれないか、考へて御覽。よしんばおツ母さんが、さうしたいと云つてもお父さんが承知しまい。君のお父さんは道樂もするし、お妾もあるし、おツ母さんなんぞ、どうなつても構はないと、思つておいでかも解らないけれども、世間と云ふものがあるから、正妻を娘の嫁入先へ追ひ出すやうな不都合な事は出來ないだらう。さうなれば、僕の親父がいくら同情してくれたつて、人の女房を預つて返さない譯には行かないぢやないか。」

「だけど其れは、お父さんも承知するやうな方法がいくらでもあるの。宗ちやんの仰しやつた通り、お父さんはおツ母さんに對して、ちつとも愛情なんかありやしないのよ。そりやほんとに非道いのよ。世間體さへ繕へれば、結句出て行つてくれた方がいゝくらゐなの。だから濱町の叔父さんに事情を話して、當分あなたとあたしだけに別家させて頂いて、其處へ暫く遊びに來て居る形で、おツ母さんを呼んでもよし、末始終はおツ母さんだけ分家して、あたしの子供を養子に直して、濱町の近所へ家を持つても濟むと思ふわ。」

美代子の云ふことは、女としては感心な程、なか〳〵筋道が立つて、理路の整つたものであつた。女はとうから斯かる目算を胸に疊んで居て、男の了見を確かめてから、始めて其れを打ち明けたのか。或はせツぱ﹅﹅﹅つまつて窮策を案出したのか。いづれにしても宗一は、美代子がこんな綿密な實行方法まで考へて居ようとは思はなかつた。其れ程に自分を慕つて居たのなら、何故早くハツキリ知らせてくれなかつたのだらうと、彼は嬉しさを通り越して、今更女のエゴイスチツクなのが恨めしかつた。

「こんな我儘を云へた義理ぢやありませんけれど、宗ちやんと叔父さんだから、無理と知りつゝお願ひするのよ。あつかましい女だと云はれるのは、覺悟して居るわ。」

「さう云ふ譯なら、出來ないまでも、一應親父に話をして見よう。萬事を打ち明けて相談したら、何かまたいゝ分別があるかも知れない。………其れにしたところで、小田原へ掛け合ひに行くには、四五日間があるだらうし、いざ談判となつてから決定する迄には、隨分暇が懸るだらうと思ふ。其の間君はどんなに、養子の方を迫られても、斷り通して居るだらうね。」

「えゝ、そりや解つて居るわ。宗ちやんの話が極るまで、あたし剛情を張り通すわ。………だけど、今日の事だけは、濱町の叔父さんに默つて居て頂戴な。あたしが生意氣に入れ智慧をした樣で惡いから。」

「しかし、或る程度まで打ち明けなければ話が解らないよ、好い事も惡い事も殘らず眞相をさらけ出して、親を出し拔いた不都合な點は十分あやまつた上で、賴まなければ、此方の誠意が屆くまいと思ふ。勿論、美代ちやんと結婚したいのは僕自身の希望なんだから、何も君が入れ智慧をしたやうに話す筈はない。」

「ほんとに濟みません。今日はあたし、嬉しくつて胸が一杯だわ。」

美代子は氣も心もせいせい﹅﹅﹅﹅したやうな調子で云つたが、眼には又淚が濕んで來て、

「どうも、有難うございました。」と叮嚀にお辭儀をしながら、そつとハンケチを顏にあてた。

二人は大そう長い間會話を續けて居たやうに感ぜられた。呼鈴よびりんを押して飯を運ばせたのは、さし向ひになつてから二時間ばかり後であつた。

「もうお話がお濟みでございますか。何卒御ゆつくりなすつていらツしやいまし。」

かう云つて入つて來ると、女中は立ち上つて電燈をひねつた。座敷の中にはほの暗い夕闇の光と、赤いともしびの光とが溶け合つて、庭續きの隣座敷にいき音締ねじめが洩れ始め、向う河岸の本所の方から、黃昏の色が次第々々に川面へ這ひかゝつた。

「美代ちやん、あの三味線は何だか分るかい。」

宗一は飯を喰ひながら、女中を前に置いてこんな事を喋舌り出した。

「えゝ、淸元きよもとぢやなくつて、保名やすなでせう。」

「それぢや、美代ちやんのお得意だね。―――君、此の先生は淸元の名人なんだよ。」

と、宗一は女中に目くばせをした。

「おや、左樣でございますか、是非伺ひたいもんでございますね。三味線を持つて參りませうか。」

「あら、噓よ、噓よ、淸元なんか出來やしないわ。」

時計を見るとまだ漸く四時頃である。何にしても、二人は一旦此處を引き揚げて、夜を幸ひに街を步きながら、殘る時間を樂しみたかつた。七圓程の勘定書を取り寄せて、

「其れでは、此れで………」

と、宗一は蟇口から、四つに疊んだ皺くちや﹅﹅﹅の十圓札を出した。

「宗ちやん、あたし持つて居てよ。」

美代子も慌てゝ紙入を抽き拔いたが、

「まあ僕が拂つて置く。」

かう云つて、宗一は美代子の手先を押し除けながら、其の手に握つて居る二三枚の五圓札にちらりと眼を着けて、

「へーえ、美代ちやん大分お金持ちだね。」

と云つた。

「えゝ、さうよ。いくらでも奢つて上げてよ。」

「いづれ今日の返禮に、うんと御馳走して貰ふさ。」

結局男が全部を負擔して、釣りの中から一圓の祝儀を女中に取らせて、二人はそこ〳〵に立ち上つた。長い廊下をばたばた﹅﹅﹅﹅と玄關まで送つて出て、

「御機嫌宜しう。―――どうぞお近いうちに是非、ほんとにお待ち申しますよ。きつとでございますよ。」

と、女中は二人の身の上に興味を感じたのか、一と通りのお世辭とは思はれない程、前よりは打つて變つて、深切な、愛嬌のある態度で云つた。

晩秋の短い日脚がすつかり暮れて、代地河岸の兩側に並ぶきやしや﹅﹅﹅﹅な家作りの障子の蔭に、黃橙色だい〳〵いろの暖かい灯がふつくら﹅﹅﹅﹅と包まれて居た。柳橋を渡つた、賑やかな廣小路の往來から藥硏堀やげんぼりの方へ、二人は人形町時代のやうに手を取り合つて睦ましく步いた。酉の市の歸りと見えて、夜目にもしるい大きな熊手や羽子板を翳した俥が、何臺も二人の側を掠めて通つた。

「ほんとに旨く行けばいゝわね。もう今度はあたしのおツ母さんより、濱町の叔父さんの方が心配だわ。叔父さんが承知して下さるといゝけれどなあ。」

「まあ僕に任して置くさ。うまくやつて見せるから。」

「何卒お賴み申します。ほんとに此れさへ旨く行けば、あたし宗ちやんに手を合せて拜むわ。」

「だけど、いよ〳〵話が極つたとしたところで、一緖になる迄には、隨分手間が取れるだらうな。學生時代に結婚するか、大學を卒業するまで許嫁いひなづけで居るか、其處いらは親父の考へ次第だからね。」

「極つてさへ居れば何年でも待つわ。大學を卒業するつたつて、二年、三年………と、もう後五年だわね。五年ぐらゐ、直き立つて了ふわ。」

「五年でも、六年でも、どんな事があらうと必ず大丈夫だと思つて待つて居てくれ給へ。僕も美代ちやんを信用するからお前も僕を信用しておいでよ。………」

男は知らず識らず、「お前」と云ふやうな言葉を使つて居た。

「………此れからは談判が表向きになるのだから、當分内證で手紙のやり取りなんかしない方がいゝと思ふ。信じ合つて居さへすれば、顏を見なくたつて差支へがない。其の代り、ふだんはいくら會はないでもいゝから、萬一お互の體に變事でも起るやうな場合があつたら、電報でも何でも構はずに打つとしよう。」

宗一は嚴粛な調子で諄々と語つたが其の話が耳に入らない位、女はうはそらになつて喜んで居た。

「あたし、今日の事は一生忘れないわ。あたしも此れから死ぬなんて事は云はないから、宗ちやんも體を大事にして下さいな。」

二人はかう云つて、堅い握手をした。

濱町の橘の家では、追々節季がつまつて來たので、掃除やら、洗ひ張りやら、針仕事やら、お品は天氣の續くのを賴みにして、每日々々せつせ﹅﹅﹅と働いて居た。雨と云つたら、三の酉の晚に、一としきり激しい土砂降りがあつたばかり、明くる日から又からり﹅﹅﹅と冴えて、大道の泥濘ぬかるみも朝のうちに乾き、梅の莟でも綻びさうな、うら〳〵とした陽氣であつた。

「ほんとに有り難い、………此の鹽梅なら、今年の冬は凌ぎいゝだらう。」

かう云つて、お品は宗兵衞が店へ出掛けて了ふと、お午前ひるまへの間に夫や忰の不斷着の綿入をほどいて了つて、お午からは小間使のお兼と一緖に、物干へ出て洗ひ張りに取りかゝつた。

階下には御飯焚きのおえい﹅﹅ひとりで留守番をしながら、太つた手頸を石鹸しやぼんだらけにして、勝手口で白足袋の洗濯をして居た。ところへ、格子ががらりと開いて、十日ばかり姿を見せなかつた宗一がやつて來た。四疊半の玄關を上ると、座敷を一と通り覗いて廻つて、

「おツ母さんは。」

と、おえい﹅﹅に聲をかけた。

「物干にいらつしやいます。」

「さうか。」

と云つて、彼は臺所に接した女中部屋の梯子段を登つて、物干へ出た。

母は張板と張板の間に挾まつて、西日を背中に浴びながら、頻りにべつとり﹅﹅﹅﹅と濡れた布を板の上へ押し伸ばして居たが、ちよいと宗一を振り返つて、

「おや、今日は半どんかね。」

「いゝえ。―――もう直き試驗で忙しくなるので、當分來られないかも知れませんから、今のうちに汚れ物を持つて來ました。」

「それぢや今日は泊らないのかい。」

「ナニ泊つても明日あしたの朝早く歸ればいゝんです。―――それに、少しお父さんにお話しゝたい事がありますから、孰方どつちにしても泊りませう。」

「さうかい。………今何時頃だね。」

母は、半分仕事の方に氣を取られて居た。

「二時過ぎでせう。」

かう云ひながら、宗一は、見覺えのある自分の着物のきれが、順々に張られて行くのを眺めて居た。板の上に働いて居る母親の手先には、鮮かな光線がくつきり﹅﹅﹅﹅と落ちて、糊だらけの十本の指は、色こそ白けれ、傷々いた〳〵しく節くれ立ち、ぱつくりと肉の裂けた傷口に黑い線が入つて、爪などはみんな短く擦り切れて居た。戀は神聖だとか、生活の基礎だとか、單に口の先ばかりでなく、腹の底から考へを据ゑて居た宗一も、此の手が暗示する堅實な力ある生命ライフに對しては、比較にならぬ位、浮薄な輕佻けいてうな事のやうに感ぜられた。

彼は暫く物干の手すりに倚つて、靑空の下に遠く連なる街々のいらかを望んだ。其處からは久松町の明治座の屋根だの、深川のセメント會社の煙突などがよく見えて、子供の折から彼の瞳孔に沁みついて居た。此の物干から濱松界隈を俯瞰する時程、自分の幼い頃を想ひ出すことはなかつた。

「あの時分から見ると、母も隨分年を取つたものだなあ。」

と、宗一は思つた。

一方の手すり﹅﹅の外には、臺所の屋根がだら〳〵と下つて居て、半分硝子障子の開いて居る引窓の下に、流し元のおえい﹅﹅の頭が見えて居た。彼は物干用の冷飯草履を穿いたまゝ、屋根の上へ下りて、みしみし﹅﹅﹅﹅とたん﹅﹅﹅ぶきを踏みつけながら、一二間離れた二階座敷の自分の書齋のところまで傳はつて行き、機械體操をするやうに、身を躍らせて高い窓から部屋の中へ飛び込んだ。さうして、庭に面して緣側の方へ頭を向けて、大の字に寢そべつて了つた。

近所に話相手の友逹はなし、うちの者は働いて居るし、夕方父の歸宅する迄は、別段しよざい﹅﹅﹅﹅がないので、彼はかうやつて居るより仕樣がなかつた。どう云ふ風に談判を切り出さうか、母の居る時にしようか居ない時を窺はうか、打ち明けるにしても、悉く白狀しようか、或る程度まで保留して置かうか、殊に賄の一件などは、どうしたら好いであらう。こんな考へが、頻りに彼の頭を往來したが、結局父の顏色を見てからでなければ豫め極てかゝつても何にもならないとあきらめて、ぼんやりと天井を睨んで居た。

宗一が寄宿へ入つて以來、誰も此の部屋に住む者がなくなつて、なつかしい書齋の舊態は大方面影を失ひ、六疊の一間は物置きの如く種々雜多な品物で埋まつて居た。父が此の間關西へ旅行した時の鞄が二つ三つ、旅館のレツテルを貼つたまゝ、壁の片隅へよりかゝつて、其の橫には、兩親の居間に敷いてあつた由多加織ゆたかおりの敷物だの、茶の間にあつた熊の皮の蒲團など、丸太のやうにぐるぐると卷いて重ねてある。昔學校の制服や帽子を掛けた折れ釘には、新聞紙にくるんだ鮭の鹽引が吊る下り、昨夜の雨に濡れたらしい蛇の目の傘が、座敷の中央に擴がつて居る。正月、玄關のとツつき﹅﹅﹅﹅に立てる二枚折の、萬歲の繪を畫いた屛風が、藏の奧から引き出されて、柱へせかけてある傍に、夜具蒲團の綿がうづたかく積まれて、宗一が古馴染の本箱や机はみんな後へ隱されてあつた。彼は何となく其の本箱が戀しさに、綿の上へ腹這ひになつて、窮屈な、狹いところへ首を突込みながら、硝子戶の中に一杯につまつて居る書籍の數々を拔いて見た。中學時代に愛讀した樗牛全集、一葉全集など、手に取るまゝに好い加減なページを開いて眼を落すと、つい﹅﹅面白さに次から次へと何枚も引き擦られて行き、平家雜感とたけくらべ﹅﹅﹅﹅﹅とを、日の暮れる迄に讀み終つて了つた。あたりが薄暗くなつたので、氣が付いて見ると、もう母もお兼も物干には居なかつた。夕餉ゆふげの仕度をするらしい臺所から、秋刀魚さんまを燒く匂ひがぷんと鼻を襲つて、ちやらちやらと皿や茶碗を揃へる音が聞えて居た。

程なく「お歸り」と云ふ聲がして、宗兵衞が戾つて來た樣子である。八疊の居間へ通ると衣類を着換へて風呂加減を訊き、早速湯殿へ行つて十分許りで上がつて仕舞ひ、相撲取のやうに肥滿した、眞赤にゆだつた﹅﹅﹅﹅體へ、腰卷一つ卷いて、飯の知らせを待つ間茶の間で夕刊を讀むのが例になつてゐる。其の刻限を見計らつて、宗一は目立たぬやうに書齋を下りたが、階下したでは旣に電氣がかんかん﹅﹅﹅﹅ともつて居て、母は長火鉢の猫板に頰杖を衝き、小皿に滴らした八盃はちはいの汁を舐めて見ながら、

「お前、何かお父さんに話があると云つたぢやないか。」

と、宗一に云つた。

「えゝ。」

「話があるなら、もうぢき御飯だから、今のうちがいゝよ。―――茶の間にいらつしやるから。」

母は何か、ちよいと一と言話せば濟む物のやうに考へて居るらしかつた。けれども、今を除いては、親父一人の折を捉へる機會がないやうに思はれて、

「さうですか。」

と云つて、彼は緣側傳ひに茶の間へ行つた。

「お父ツさん、今日は。」

かう云ひながら、潜り戶を開けて、彼はいつになく改まつてお辭儀をした。

「うむ、―――試驗はいつから始まるんだ。」

父は依然新聞の方へ眼を着けたまゝ、氣輕に尋ねた。

「十二月の十五日ごろからです。」

「體は相變らず丈夫か。」

「えゝ。」

「試驗でも濟んだら、また沼津へでも行つたらどうだ。―――今度は溫泉もいゝだらう。此の間大阪へ行つた歸りに修善寺へ廻つたが、彼方は暖かだな。」

「はあ。」

又旅行の話になつたら、果てしがないので、宗一は氣のない返辭をした。

「尤も正月の事だから、東京に居るも好いし、まあお前の好きにするさ。休みはいつまであるんだ。」

「正月の十日時分までゞす。………お父さん、今日は………」

と云ひつゝ、彼は唾吐つばきを呑んで、疊へ兩手をついた。

「少し、私に取つて重大な話があつて、參りました。」

「なんだ。」

かう云つて、父は、側に疊んで置いてあつた浴衣とどてら﹅﹅﹅の重ね着の襟をつまむで立ち上がり、湯氣の乾いた素肌の肩へふわ﹅﹅ツと纏つて、兩腕を袂へ通すと、縮緬の兵兒帶を手早く締めて、再び坐る拍子に右の手で煙草盆を膝近く引き寄せた。

「私はお父さんにいろ〳〵御詫をしなければならない事と、お願ひをしなければならない事があるんです。實は私は、お父さんにもおツ母さんにも内證で、美代ちやんと結婚の約束をして了ひました。今迄餘計な御心配をかけては濟まないと思つて、隱して居りましたが、今日はお叱りを受けるのは覺悟の上で、何も彼もお話する決心で參りました。」

此れだけ喋舌るのが、宗一には容易な業ではなかつた。すら〳〵と續けて行かうにも、自分の舌が言葉の重味に堪へられないで、苦しい息を吐いたり、文句をくぎつたりした。話の中途から、父はつひぞ見た事のない眞顏を作つて、煙管の金口きんくちを右の頰にあてがひ、疊の面へ瞳を注いで默つて聞き耳を立てゝ居た。屹度商賣上の相談などを持ち掛けられた時、宗兵衞はいつもこんな態度を取るのであらう。相手の言葉が、いかにも明瞭に靜かに聞き取れさうな身構へをして居るだけ、其れだけ宗一は一層話づらさを感じた。

「勿論、結婚の約束をしたと云つても、二人の間に何か間違ひを仕出來したと云ふ譯ではないんですから、其れだけは御安心を願ひます。私は唯どうせ將來結婚しなければならないものなら、美代ちやんを貰つて頂きたいと思ふんです。さう云ふ考へから、先方の意向を確める爲めに、今迄度々内證で手紙のやり取りをしました。また小田原から美代ちやんを呼び寄せて會つても見ました。親の眼を忍んで、二人で勝手に約束なんかした事に就いては、一言の申譯もありませんけれど、忌まはしい關係のなかつた事だけは、何處までもお父さんに信じて頂きたいんです。」

「一體いつ頃からそんな事をして居たんだ。」

宗兵衞は、いつものやうな隱かな、打ち解けた聲で云つた。

「ことしの夏時分………丁度沼津から歸つて來る時に、一つ汽車で東京へ來た事もありますし、寄宿舎へ入つてからも度々手紙の遣り取りはしました。尤も會つたのは沼津の時と、昨日と、たツた二度ぎりです。」

「昨日? きのう何處で?」

「美代ちやんが不意に寄宿舎へ電話を掛けて、至急に會ひたいと云ふもんですから、學校を休んで、二人で柳光亭へ行きました。それも此の間頂いた賄のお金で勘定を拂つたんです。………まことに申譯がありません。」

宗一は顏から火の出るやうな恥かしさを忍び、凡べてのだいそれた﹅﹅﹅不都合を一緖くたにして、吐き出して了つた。

「己はお前の云ふ事を疑つて居やしないが、たとへ實際はそんな行ひがないにもせよ、二人で料理屋へ出入ではひりをしたり、内證で文通したりした事がぱつとなれば、世間では決してお前の思ふ通りに見てくれないぞ。お前は若い了見で、關係さへしなければ、女に傷が着かないと思つて居るだらうけれど、世間ではうはべ﹅﹅﹅の樣子を見ただけで、立派に傷物と極めて了ふんだ。此れからもある事だから、よく心得て居なければいけない。ましてお前はまだ學生の身分ぢやないか。どんなに自分逹の意志がシツカリして居る積りでも、男女の仲と云ふものは、得て知らず識らずの間に、とんだ間違ひを來たすものなんだ。―――お父さんは親の慾目でお前を信用するにしても、世間の人に怪しまれたら、己だつてそれを絕對に否認する證據がない。」

宗一は思つた。昔の人は男女の關係になると、案外疑い深いものである。つまり、今日の靑年の抱いて居るやうな、性慾を放れた戀愛の存在を合點する事が出來ないから、惚れたと云へば、直ぐに肉體の方面を考へる。何事に依らず早解りのする父の言葉として、證據がないから否認する譯には行かないとは實際殘念であるが、いくら辯明したところで、到底了解されないに極まつて居る。

「仰しやつたことはよウく解りました。自分でも決して善い事とは思つて居なかつたのですから、此れから必ず氣を着けます。」

「うん、お前も敎育のない人間ではなし、こんな理窟は己よりもよく知つて居る筈だから、解りさへすれば何も云ひたかあない。」

かう云つたぎり、父は再び默つて了つた。肝心な結婚問題の腰が折れたので、逆戾りに話の筋を立て直す可く、宗一は又新たな努力をしなければならなかつた。

「それから、さツきお話しました結婚の事ですが、此れも學生の身分として、まだ其の時機でないことは存じて居ります。美代ちやんが私の大學を卒業する迄、一人で居られる年頃なら今から斯う云ふお願ひをする必要はないんですけれど、いづれ小田原の方ではお嫁の話が出るでせうし、何とか此の問題が極らないうちは、私も落ち着いて勉强する事が出來ません。美代ちやんは望みがかなはないで、外へかたづくやうだつたら、死ぬと云つて居ります。私も、若し一緖になれなかつたら………一生結婚しまいと、覺悟をして居ります。かう云ふと何ですが、私は今までお父さんに御無理をお願ひした事はない積りです。一生に一度の我儘と思つて、何卒今度だけ、お聞き屆けなすつて下さい。二人が自分勝手にこゝ迄話を進めて了つたに就いて、重々不都合だと仰しやれば據んどころありませんけれど、私としてはかうするより外、世の中に生きて行く望みがありませんでした。結婚が出來れば、二人は勿論、お父さんやおツ母さんのお爲めにも、決して惡い結果にはならないやうに存じます。」

困つたことだ、と云はんばかりに、父は腕組をしながら煙草を吸つて、考へ込んで居る。湯上りの血色のいい顏へ、電燈の明りが照つて、顏や鼻柱がつや〳〵と輝いて居る。宗兵衞がまだ若旦那と云はれた時代、每夜每夜親父おやぢやおふくろの眼を盗んで、帳場を拔け出した二三十年も前の自分の姿が、ふと彼の顏に泛んで來た。其の時分は、彼とても淺ましい戀の奴であつた。互に命までもと惚れ合つた經驗は、芳町にも柳橋にも二三度あつた。宗一が生れたお蔭で自分の性根が入れ變つた事を忘れず、せめて子供を立派に仕立てようと努めたかひもなく、放蕩の血が其の子の胸に傳はつて居て、今になつて自分に反逆を企てようとは。自分が親に心配をかけたやうに、自分も子供に心配をさせられなければならないのか、さう思つて、宗兵衞は胸を痛めた。

「昨日の美代ちやんの話では、おツ母さんが養子を貰つて分家させる積りで居るから、なか〳〵此方へは寄越すまいと云ふんです。しかし、あか﹅﹅の他人へかたづくのではなし、何とか話のしやうに依つたら、解決の道があるだらう。要するに美代ちやんのおツ母さんさへ將來安樂に過せる保證が附いたらば、纏まらないことはないだらうと思ふんです。勝手な上にも勝手なお願ひですが、御參考までに一應此の事を申し上げて置きます。」

「ま、其の話は二三日待つて貰はう。今度の日曜迄に考へとくから。」

かう云ひながら、父はぱた〳〵と手を鳴らして、

「おい、己の紙入を持つて來てくれ。」

と、奧へ怒鳴つた。

もう直き御飯だと云つたのに、今迄催促に來ない樣子を見ると、母は話の始終を立ち聞して、遠慮して居るらしかつた。母屋に續いた瓦燈口ぐわとうぐちを開けて、紙入を持つて出て來たのはお兼であつた。帛紗ふくさの包みを宗兵衞に渡すと、其の儘何も云はずに引込んで了つた。

「金はいくらばかり足りなくしたんだ。」

「八圓ぐらゐです。」

「それぢや此れを渡して置く。試驗が忙しければ、飯でも喰べて今日は學校へ歸るがよい。」

包みを解いて、菖蒲皮しやうぶがはの紙入の中から取り出した十圓札を、宗兵衞は靜かに宗一の前に置いた。

「はい。」

宗一は謝罪の意味を含んで、畏まつて頭を下げて、札を懷に入れた。此れ程にしてくれる親をつかまへて、散々迷惑を掛けなければならないハメになつたのが、今更辛く悲しく感ぜられた。

とう〳〵冬がやつて來た。朶寮の自修室にストーブが備へられて、敎室には朝のうちだけスチームが通るやうになつた。此の二三日、淸水はテニスと西洋人の訪問を止めて、圖書館に立て籠つてゐる。野村は碁會所通ひを好い加減にして、寮務室の二階に隱れる。ノートの整理をしたり、敎科書の不審をたゞしたり、みんな試驗の準備に忙殺ばうさいされて、運動家の中島でさへ、野球の練習が濟んで了ふと、いつもは講道館へ出かける時間を、勉强の方に割愛して居る。相變らず呑氣なのは杉浦ばかりで、

「僕ぐらゐ勉强の必要を痛切に感じて居て、而も勉强の出來ない人間はないナ。」

こんな事を吹聽しては遊び廻つて居る。

佛法の山口も、

「わしや近いうちに、一遍吉原へ行つて來んと、どうも勉强が出來ん。」

と云つて、每晚杉浦と一緖に飮み喰ひしてはお喋舌りを戰はす。

「なんと杉浦さん、淸水と云ふ男はありや可笑しいぜエ。わしや彼の靑白い顏を見ると、いつでも試驗を想ひ出すがな。」

「全く試驗のやうな面をして居るな。」

「それから君の部屋に大山と云ふ男が居るが、ありや一體どう云ふもんぢや。」

「どう云ふもんだか僕も解らんよ。ゆうべも寢室でコソコソやつてるから、大方試驗の準備かと思つたら、豈圖らんや『男女と天才』を讀んで居るんだ。」

「ヒヨツとしたら、ありや大した豪傑だぜエ。」

山口は首をかしげて、頻りに大山に感服して居る。

宗一は例の懸案が片附いて了ふまで、とても仕事が手に着きさうもなかつた。晝間から寢室の窓際に机を据ゑて書籍を前に端坐しながら、二三頁も進むと、ぢきに頰杖を衝いて側方そつぱうを向く。どうかすると退屈紛れに友逹の本箱から雜誌や小說の古本を拔き出したが、或る時彼はウツカリして淸水の日記帳を開いて了つた。

予ハ此ノ度ノ試驗ニ必ズ主席ヲ占メザル可カラズ。予ハ實ニ野村ヲ恐ル、彼ハ予ノ Rival ナリ、予ハ如何ニシテモノライヷルヲ破ラザルベカラズ。

ちらりと此れだけ讀むと、彼は淺ましい心地がして、其の儘元の所へ突込んで置き、晚になつてから何氣なく淸水に尋ねた。

「君はえらい馬力で勉强してるぢやないか。今度は野村がまけるかも知れんぜ。」

すると淸水は頭を抑へて、快活に笑ひながら、

「いや、どうして、僕なんざ、そりやあ君及第する自信はあるけれど、成績なんかまあ十番以上ならいゝ積りなんだよ。」

かう云つて、何喰はぬ顏をして居る。

「ところが僕は及第する自信もないぜ。每日々々遊んでばかり居て。」

と、傍から中島は口を出した。

「君あ大丈夫だよ。杉浦の所謂いはゆる知勇兼備なんだもの。」

「さうはいかんぜ。夕方湯へ入つて飯を食ふとガツカリして眠くなつちまふ。」

「しかし、運動家は精力が續くからいゝね。」

と、宗一は頑健な中島の體格を眺めて云つた。

「それはさうと橘君、此の頃はさつぱり小田原から手紙が來んぢやないか。試驗だと思つて遠慮しとるのかい。」

「どうだか。」

「君は勉强するにも二人がゝりだから、愉快だらうなあ。」

子供のやうな眼をして笑ひながら、柄にもなく中島はこんな冷かし文句を浴びせる。

「いや、君の方が餘程仕合せだよ。僕見たいに下らない事にかゝづらは﹅﹅﹅﹅﹅つて居ると、勉强なんか出來やしない。一日でもいゝから、僕は君のやうな氣持になつて見たい。………」

宗一はしんから中島の境遇が羨ましかつた。學問と體育とに若い精力を傾注し通して居たら、嘸かし頭がカラツとして、年中爽快な月日が送れるであらう。自分も始めから美代子の事など考へないで、活發な、無邪氣な、運動家の群に投じればよかつた。

今となつて、其れを後悔したところで仕樣がない、一旦乘り出した問題の決着する間、やつぱり山口と同じく杉浦を相手にして、宗一はウロ〳〵と大切な時間を遊び暮らした。

「橘さん、わしや明日あす國から爲替かはせが來たら、吉原へ行かうと思うとる。君も一緖にんだらどうぢや。上るのが嫌なら、見るだけでも構はんがな。一と口に女郞と云ふけれど、大店の華魁おいらんはいゝぜエ。―――かう云うたら怒るかも知れんが、女が戀しいと云ふのは、つまり無意識のうちに性慾の滿足を要求しとるんぢや。つまらん事に頭を病まんと、一遍女を知つて了へばきつと落ち着いて勉强が出來るんぢや。君のやうにクヨクヨして居つても、結句損ぢやがな。」

十二月の第一金曜日の晚に、三人で豐國とよくにぎうを喰ひながら、頻りに山口は說きすゝめた。明日はいよ〳〵女郞買に行つて、明後日あさつての日曜から試驗準備に取りかゝる前祝ひに、山口は大した元氣で飮みもしない酒を呷つた。

「へーえ、兼ねての宿願が成就して、とう〳〵明日あした出かける事になつたのか。」

かう云つて、杉浦は眼を圓くした。

「山口の遊ぶところを一度見たいもんだな。お前の相方は別嬪べつぴんかい。」

「美人ぢやないが、ポツチヤリしてちよいと可愛いんぢや。わしや少し其の女に惚れとるがな。まあ君も一緖に來て見給へ、おしよくを張つとるだけになか〳〵利口な奴だぜエ。」

お職と云ふ名を聞いて宗一は二三日前に讀んだ一葉全集のたけくらべ﹅﹅﹅﹅﹅に、此の言葉のあつた事を思ひ出した。

「さうだ、わしや一つ今夜出かけてやらう。どうせ明日は金が來るんだから、マントを質に入れてやるんぢや。―――此れなら、五兩は借すだらう。」

十一時頃まで夜を更かして、引き上げる時分に、山口はかう云つて外套のホツクを外しながら、

「それぢや、此處で失敬する。」

と、大學裏門の眞暗な夜路を、いそ〳〵と龍岡町の方へ消えてなくなつた。

「外套を質に入れないたつて、一日ぐらゐ待てさうなもんだが、そんなに行きたいものかなあ。―――や、何しろ奴は滑稽だ。」

杉浦は宗一と一緖に、再び靑木堂で珈琲コーヒーとウヰスキーの梯子飮みをして、例の如く、門限過ぎに生垣を乘り越えて寮へ戾つた。

其の明くる日、はんどん﹅﹅の授業が濟むと、三人は又落ち合つて、本郷通を步いて居た。不思議な事には、昨夜入質した筈のマントが、相變らず山口の肩に翩翻へんぽんとひるがへつて居た。

「どうしたんだ、ゆうべれから行かなかつたかい。」

杉浦が尋ねると、山口は小鼻の周圍に皺を作つて、妙ににたにた﹅﹅﹅﹅笑つて居る。

「どうしたツて、彼れからが奇拔なんぢや。わしや當分吉原へ行かんと濟む事になつた。」

「ま、一人でさう恐悅して居ないで、話したらいゝぢやないか。」

「かうなつたら、無論話すがな。君池の端の通りに、丁度此方から行くと左側に、汚い煙草屋があるのを知つとるぢやらう。彼處に娘のあるのを知つとるかな。」

「知らないねえ。」

「わしは知つとるんぢや。」

と、山口は顏の中央まんなかに人差指をあてゝ、

「少し譯があつて、前からちよい〳〵訪ねるついでに彼の娘に眼を着けて置いたんぢや。ところが昨夜質屋へ行かうとして、彼處を通ると、娘が店の戶を締め乍ら、山口さん、今時分どちらへお出でになりますツて、呼び掛けるんぢや。―――暗い往來へ眞白な首を出して、家の中のあかり﹅﹅﹅を背に受け取る工合が、可愛うてならんぜエ。………」

「Description は好い加減にして、早く要領をかい﹅﹅つまむさ。」

「こいつ、今夜何とか物にしてやらんけりや、こんな機會はないと思うて、お梅さん、―――お梅さんと云ふ名なんぢや。―――ちよいと出ていらツしやいと云ふと、なあにと云ひ乍ら、下駄を穿いて、戶外おもてからそツと戶を締めて、わしの側へやつて來たんぢや。少しあんた﹅﹅﹅に話があるがと云うて、わしや娘の手を取つて、上野の山へ行つた。

「娘はそれで平氣なのかい。」

杉浦は大分好奇心を挑發されて、眞面目になつて山口を覗き込んだ。

「いや、多少恐ろしかつたに違ひないんぢや。わしが押さへとる手頸がぶるぶる顫へて居つたからな。―――けれど Virgin でないことは確かなんぢや。大膽な女子ぜエ。」

「いや實際呆れたもんだ。僕等の友逹にこんな惡黨があるんだから驚く。」

杉浦は口を尖らし、胸を張つて、慨然と空嘯いた。

「今更惡黨にせんでもよからう。こんな例は世間に澤山ある事ぢやがな。―――ところでわしや此れから失敬して煙草屋へ行くぜエ。晝間は親父が留守で娘と小さい弟だけぢやから、萬事都合が好いんぢや。」

「一つ、家の前までくツ附いて行つて、其の娘を見てやらう。」

「見るに及ばんよ。そんな別嬪ぢやないんぢや。」

「だつてお前、さツきの Description に依ると、なかなか可愛らしさうぢやないか。」

「そりや其の時の氣持で可愛かつたんぢや。―――一緖にくるもいゝが、君が又娘を捉へて餘計な事を云やせんかと思うてな。わしや此れでも、正直な、堅い人間のやうに見せとるんぢやから。」

「見るだけ見れば、僕等は默つて引き退るさ。誰がソンナ面倒臭い事をするもんか。」

二人は山口の後に附いて、切通しの坂を下りた。岩崎邸の角から左へ折れて右へ曲つた池の端の通りを、二三町行くとむさくろ﹅﹅﹅﹅しい煙草屋の店があつた。五六間手前から、山口はひとり先へ立つてすたすたと步いて、

「今日は。」

と云ひながら、框へ腰を掛けた。

娘は店先に陳列してある硝子張りの煙草の箱を楯にして肩から上を往來に曝しながら、火鉢にあたつて居たが、ちよいとニツコリしてお辭儀をするついでに、ちらりと戶外の二人へ秋波しうはを送つた。それから續いて、山口と何か喋舌つて居るらしいのが、さつぱり二人には聞き取れなかつた。お白粉をこてこて﹅﹅﹅﹅塗り着けて居るにも拘らず、面長の兩頰が傷ましく痩せて、顴骨の飛び出た、額の拔け上つた、疲れたやうな容貌の女である。撫で肩のきやしや﹅﹅﹅﹅な體つきがいきだと云へば云ふものゝ、赤い髮を銀杏返しに結つて、古ぼけた雙子ふたこの綿入を着た樣子は、何處となく燻つて居て汚らしく、笑ふ度每にはぐきあらはにして、赤く爛れた眼瞼の奧から、細い瞳を光らせるのが、氣のせゐか、いかさま男狂ひでもしさうに見える。どう考へても、垢だらけな新銘仙に羊羹色の紋附を羽織つて、素足にぴたんこな薩摩下駄を穿いた貧書生ひんしよせいの山口とは、恰好の取組である。二人が豫期して居たやうな、ロマンチツクな色彩は、微塵もない。

「アレで山口は面白いのかね。」

宗一は夥しい Disillusion を感じて、杉浦に耳打ちをした。

「重ね重ね呆れたもんだね。あの娘が出來た爲めに、女郞買を止めると云ふんだから、女郞買の下らなさ加減も以て推す可しだよ。―――アレが可愛らしいんだとすると、山口の女好きよりも我慢强いに感心するぜ。」

かう云ひながら、二人が店の前を過ぎようとする時、

「あら隨分ね、山口さん、あたしが梅幸に似て居たら、世間にお多福はありやしないわ。」

「いや、お梅さん本當ぜエ、お世辭を云うとるんぢやないがな。」

などと、山口は娘を相手に、頻りとえつに入つて居た。

三枚橋のところへ來ると、宗一は俄に立ち止まつて帽子の鍔へ手をかけた。

「僕も此處で失敬するぜ。………」

「何故。」

と、杉浦はつまらなさうに面と向つて彳みながら、懷手をして貧乏搖すりをする。

「此れからちよいと、家まで行つて來なけりやならん。………」

「例の問題でか。」

「うん。」

「ま、別れるにしても、其處いらまでもう少し步かう。―――どうなつたんだれから。」

杉浦は友逹を氣遣ふ深切な心よりも、寧ろ無聊ぶれうに苦しんで、話の種に缺乏して居る所から、かう尋ねるらしかつた。

「今日か明日のうちに、親父の返答を聞く事になつた。」

「それぢや二日以内に君の運命が決するんだね。」

「親父が不承知なら、直ぐに駄目と決するが、承知したとなると、此れから小田原へ掛け合ふんだから、いくらか壽命が延びる譯だよ。」

「掛け合つて駄目だつたら、どうなるんだい。」

「此の結婚が出來なければ、僕も女も一生獨身で通す積りだから、遠からず悶着が起るだらう。」

「一つ、僕が君と美代ちやんの親父に打つかつて、大に利害得失を說明して、ウンと云はせてやらうかな。―――どうだい、僕に任せないか。かう云ふ談判は、實際うまいもんだぜ。其の代り成功したら、今學期の授業料を一時工面くめんして貰ふ。」

何處まで本當で何處まで冗談か判らないので、宗一は面喰ひながら、

「あはゝゝゝゝ、」

と、煮え切らない笑ひ方をした。尤も授業料の方は、每晚のやうに大酒を呷つて居る杉浦の行動から察すれば、消費して了ふのは當り前である。實は宗一も今迄よく金が續く事だとあやしんで居た程であつた。

「いつもなら授業料の工面ぐらゐは出來るんだが、僕も今度は賄の食料を使つちまつたんで、どうも困る。」

「ナニ萬一の場合にはウエブスターを拂ひ下げる計畫だから、心配しなくつてもいゝよ。―――それよりかほんとに其の談判は僕に任し給へ。」

「有難う。いづれお賴みしないでも、相談に與つて貰ふかも知れない。―――それぢやあんまり遲くなるから。」

と、廣小路の四つ角で、宗一は電車を待つた。

「あゝつまらんな。本郷座の立ち見でもしようかな。」

杉浦は天神の方へぶら〳〵と步いて行つたが、又引き返して、

「おい、君、君、いゝ歌が出來たぜ。―――晴れたる日、晴れたるまゝに雲れる日、曇れるまゝに暮るゝ悲しさ。―――悲しさがいゝか、悲しきがいゝか、どつちかな、何しろ傑作に違ひないだらう。ぢや、左樣なら。」

かう云つて、どん〳〵行つて了つた。

早く獨りになりたいので、杉浦と別れたやうなものゝ、宗一は別段急いで家へ歸る必要もなかつた。「晴れたるまゝに曇れる日」の、雲の裏に光つて居る太陽を仰ぐと、何か不祥ふしやうの運命の蔽ひ被さつて來る前兆のやうに感ぜられて、クド〳〵と重い心に問題の成りゆきを考へ乍ら、其の儘お成街道を萬世橋の方へ辿つた。須田町から掘留へ出て人形町に來たのは三時頃であつた。まだ親父の歸宅する時間ではない。彼の事に就いて、當然父から相談を受けて居る筈の母親に、其れとなく顏を合はす恥かしさ窮屈さを思ふと、此れから直ぐには、家の敷居を跨ぐのが辛かつた。據ん所なく竈河岸へつゝひがしの甘泉堂へ入つて、小豆あづきを二三杯喰べて、明治座の立ち見をして灯ともし過ぎに濱町へやつて來た。

「大そう暗くなつてから、來たぢやないか。今日はもう遲いからどうかと思つて居たのに。」

かう云つて、お品は十能じふのうの炭火を長火鉢に移して居た。姐さん冠りをした中高の顏へ、火氣が赤く映つてポツと上氣のぼせたやうな血色に見える。

「本郷から步いて來たんです。」

と、宗一は率直に答へた。少し手先のかじかむ﹅﹅﹅﹅やうな寒さの宵に戶外を彷徨うろつき廻つた揚句、急に家の中へ入つた爲めであらう、人いきれ﹅﹅﹅と、燈火ともしびの熱の籠つた室内の空氣に、ぬく〳〵と體の溫まるのを覺えて、彼は今更しみ〴〵家庭のなつかしさ惠み深さを感じた。

「お前、御飯前にお湯へ入つたらどうだい。」

「えゝ、頂きます。」

「そんなら直にお入り、今お父さんがお上りになる所だから。」

母のかう云つて吳れるをさいはひ彼は袴と帶を解き捨てゝ、土藏と臺所の間に挾まつた湯殿の廊下へ駈けて行つた。姿見の前で素裸になつて、手拭を片手に、曇り硝子の障子を開けると、父は流しの中央に大柄な體格を据ゑて、お兼に背中を洗はせて居た。

「今日は。」

宗一は立ちめた湯氣の中から聲をかけて、石鹸しやぼんの泡の流れて居る板の間へ下りた。

バタ〳〵と手拭を宗兵衞の肩にあてゝ、お兼は暫く按摩をして居たが、其れが濟むと、背筋へ湯を注いだ後、小桶を一杯酌み換へて、

「若旦那、お背中を流しませうか。」

「いゝや、澤山。」

と、宗一が湯船の中から答へた時、父はどツかと腰を擡げて、彼と並んで體を浸しながら、

「もう試驗が近くなつたな。どうだ勉强してゐるか。」と云つた。

「えツ。」

宗一は生返事をして下を向いて了つた。「美代ちやんの事が氣懸りで、勉强が出來ません。」と云ふのもあんまり不躾ぶしつけのやうで、不本意ながら噓をいた。

「此の間の話は兎に角先方へ相談してやるから、其の積りで勉强するがいゝ。―――いづれゆつくり聞かせたい事もあるけれど、試驗が濟むまで、學校の方に精を出すさ。」

かう云つて、ザアツと凄じく湯の溢れる音を立てゝ、宗兵衞は湯船を出た。

隨分と暫く御無沙汰仕候。寒冷の候大兄には相變らず御壯健にて結構に存じ候。小生事、試驗終了後、一度御目にかゝり、いろ〳〵御話致し度存じ居候ところ、家の方に用事出來、昨夜遲く京濱電車にて六郷へ歸省仕候。多分此の暮は田舎にて越年致す事と相成可く候。ヲルヅウオースの大好きな小生も、寮の生活の自由にして豐富なる都會の色彩の華麗にして複雜なるに比べて、今年ばかりは、故郷に蟄居ちつきよする事の淋しさ物足らなさをつく〴〵感じ申候。昨今は父を始め家族一同の顏を見るのも嫌にて、一日鬱々と讀書したり、煙草を吹かしたり致し居り候。

春子との Marriage 問題は、遂に破談と相成候。先方は勿論、小生の父も賛成、母も賛成、妹も賛成なるに拘らず、急に小生の心變りて、契約を破棄致し候次第、此事に就きてはいづれ拜眉はいびの節委しく申し上ぐる積りに候へ共、要するに春子の性格が小生の妻として甚だ不適當なるを發見したる結果に外ならず候。彼の女は小生如き愚直一徹なる人間の妻たるべく、餘りに怜悧にて、度胸が好すぎるやうに覺え候。寧ろ外交官の夫人にでもなりて、歐州の交際界に押し出し、數多の男子を手玉に取る方が其の本領に候可きか、もと〳〵小生などの思ひを懸けたるが誤りに御座候。先逹せんだつて父が姬路へ參りて、其れとなく春子の實家を調査致し候處に依れば、土地にて可なりの家柄には相違なきも、彼の女の兄が申す程の資產は無之これなきやうの趣に候。小生とても彼の女の愛情に疑を挾む者には無之これなく、かう申しては可笑しきやうなれど、小生の家は聊か纏まりたる財產も有之これあり候へば、多少其の邊の利害關係に心を動かしたりとするも、全然慾づくにて仕懸けたる事とは存ぜられず、極めて冷靜に忌憚なく申せば、先づ第一に春子の兄が小生の朴訥ぼくとつらしき氣象に惚込み、次で相當の財產あるを確かめ、これに彼の女の戀―――たとへ不純なるにもせよ。―――が加はりて、今度の相談と相成り候やうに考へられ候。其の點を察すれば、今更氣の毒の感も致し候へど、性格の背馳せる兩人の結婚は、お互に將來の不幸と存じ、淡泊に先方の兄に打ち明け破約を乞ひ候處、兄も妹に負けぬシツカリ者とて、不平を色にも表はさず、兎にも角にも快諾致し、さらば此の後とも親友として往復致し度き希望を述べて、譯なく落着仕候。

小生の初戀が、斯くも悲慘なる終りを遂げたるは實に意外にて、形式上の解決は着き候へ共、手痛き創痍さういの痕は容易に恢復仕らず、當分懊惱の種と相成り申す可く候。いかにして此の頃の無聊、倦怠孤獨を救はんか。刺戟なき生活は小生の一日も堪へ難きところ。さればとて第二の戀を作る元氣もなく、昔のクリスチヤンに復る心にもなれず、過去を想ひ出す度每に、忌々しく、情なく、いたづらにいらだち申し候。

せめて、小生の心事境遇を最も熟知せらるゝ大兄を捕へて、悶々の衷情ちゆうじやうを訴へたく、近日憂さ晴らしに上京して御尊宅を訪問仕可く候。此の際飄然と旅行に出かけたき存念切に候へども、破約以來家族一同小生の擧動を解しかね、何かにつけて餘計な心配を醸し居る折柄故、蟲を殺してヂツと辛抱致し居り候。先は御近狀御尋ねかた〴〵御報迄以上。

十二月二十四日      佐々木卯之助

   橘 大兄 机下

暮の二十一日に試驗が濟むと、宗一は早速寮を引き拂つて濱町へ歸り此の休暇の間に小田原の方の話を始末して了はうと思つた。さうして、一旦物置き代りに使はれた自分の書齋を綺麗に片附けて、再び其の部屋の住人となつた。父からは容易に何の挨拶もなかつたが、あれ程淸く承知してくれた以上、あまり執念しふねく追求する譯にも行かず、每日々々返答を待ち焦れつゝ空しく時を過ごして居た。丁度此の手紙が屆いてから、中一日置いた二十六日の事である。まだ宗一が寢て居る時分に、佐々木がヒヨツコリ訪ねて來た。

「何處かへお出掛けになるといけないと思つて、今朝六時前に家を立つたんです。………先逹の手紙は御覽になつたでせう。」

「うん、此の頃は始終退屈で困つてるんだ。今日はゆつくりして行つてくれ給へ。」

宗一は二階の緣側の、日あたりの好い東向きの障子を開け放して、敷居際に八端はつたんの座蒲團を据ゑ、佐々木と差し向ひに庭の梢の霜除けを眺めながら語つた。疊替へをしたばかりの座敷の中に、朗かな朝の空氣が透き徹つて、佐々木のくゆらす敷島の煙が、靑く白くゆるやかな圏を描き、恰も水に流るゝ女の髮の毛のやうに、たゆたひながら漂つて居た。

「大層書齋が立派になりましたね。―――あれは何ですか。」

佐々木は身を屈めて、向う側の壁に沿うた本箱の硝子戶を透かしながら、

「君、デイヷイン、コメデイーを買つたんですね。全部すつかりお讀みになりましたか。」

「此の休みに讀む積りで居たんだが、まだ十頁ぐらゐしか手を付けない。」

「あれには、ロングフエローの譯と、ロセツチの譯があるさうですが、孰方がいゝでせう。」

「さあね。」

と、宗一は曖昧に云つた。中學時代に一級下であつた關係から、佐々木はいまだに彼を先輩扱ひにして、言葉遣ひを叮嚀にするばかりか、自分が専攻する文學上の質疑までも、宗一に聽かうとする。其れが一片の禮讓から出たのではなく、本當に相手の學識を買ひ被つて居るらしいので、宗一は度々遺憾を感ずるのであつた。

「僕は此の間、クオー、ヷヂスを讀んで見ました。」

「僕もあれは讀んだ。」

「素晴らしいもんぢやありませんか。此の頃の小說で、あの位動かされた本はありませんね。ヸニチアスと云ふ人は、日本の文覺上人の樣な所がありはしませんか知ら。」

「それでも戀が成就したゞけ、文覺上人よりは仕合せだと思ふ。」

「しかし、今の靑年は文覺上人よりもつと不仕合せですよ。僕等はとても彼れ程無遠慮に、自分の戀を貫くだけの熱情が湧きませんもの。文覺やヸニチアスのやうに、熱烈な生一本な感情が持てれば、其れだけでも僕は幸福だと思ふんです。今の人間はどうしたツて、あんな單純な頭にはなれませんからね。」

「君なんぞでもさうかなあ。僕は此の間の手紙を讀んで、實際意外に思つたよ。春子さんの方で逃げたのなら格別、君の方から嫌になると云ふのは可笑しいぢやないか。」

「そんなに可笑しうござんすか。」

「可笑しいさ君、今になつて性格が合はないとか、將來の不爲めだとか、そんな冷靜な判斷が出來よう筈がない。よしんば判断が付いたところで、單に理窟一遍で別れるなんて、君にやり通せる藝當ぢやないぜ。やつぱり飽きたんだね。」

「飽きたんだと云はれゝば、其れもさうでせう―――しかし、僕がをんなに飽きた原因は、どうしても性格の相違する點にあるんです。だん〳〵附き合つて見ると、そりやナカ〳〵喰へない女なんですよ。まあ、まるで僕なんぞとは別世界の人間ですね。僕に對する素振にしろ、仕打ちにしろ、一々政略の細工を持つて居るんです。必ずしも惡い動機から技巧を用ふるんぢやないとしたつて、實際腹が立ちますよ。此の儘捨てゝ置いたら、僕は氣が弱いから、次第に彼の女に壓服されて了ふでせう。」

「惚れた女になら、壓服されたつて構はないぢやないか。」

「そりやさうです。けれども遣り方が如何にも見え透いて居て淺ましいから、壓服される前に先づ不快を感じて、嫌になるんです。あれではいつ迄馬鹿にされるもんかと云ふ敵愾心てきがいしんを起させるばかりです。」

「君のやうな道德家―――道德家と云ふのも變だが、正直な、愛情の淸い人でも、飽きると云ふ事があるのかえ。何にしても意外だつたよ。」

宗一は意味ありげな微笑を浮べながら、相手の表情を判じるやうに凝視して

「君、の人と何か關係があつたんぢやないのかい。」

「決してありません。」

と、佐々木はキツパリ答へて、强く首を振つた。

「そりや、二人で夜遲く散步した事は隨分あるんですけれど、關係なんかは斷じてないんです。」

「さうか知ら。―――山口の說に依ると、男と云ふものは關係が附いて了へば、直に女を棄てるさうだから、或は其の邊の事情があるかと思つて、………」

「それこそ、僕に出來る藝當ぢやありませんよ。藝者を買つたり、女中に手を附けたりしたのなら、棄てた所で冷酷とは云へますまいが、其れとは場合が違ふんですもの。かうなれば、何も彼も打ち明けてお話しますがね。いつか夏の晚に芝の山内をうろついた時なんぞ、春子をベンチへ坐らせながら、僕は後から庇髮の中へ鼻を埋めて、兩手で頰を挾んでやつたり Kiss したりしました。其の他の時にも Shake hand や Kiss は何度したか知れません。けれど決して、其れ以上には進まなかつたんです。」

宗一は友逹の甘い物語を、默つて聞かされる程、寛大ではなかつたが、佐々木のやうに眞劍にのろけられると、冷嘲する隙がないので、いつも謹聽を餘儀なくされた。

「さう云へばね、一度妙な事がありましたよ。此れは決して、他へ行つて話されちや困りますが………」

と、何を想ひ出したのか、佐々木は眼を光らせて、一段と調子を低め、

「一時僕が千駄木に二階を借りて居た事があつたでせう。あの時分、土曜日になると、屹度春子が僕の妹と一緖に、―――兩方とも○○女學校の同級生だもんですから、互に誘ひ合つて訪ねて來たものなんです。たしか去年の四月ごろでした。半どん﹅﹅の晚に二人でやつて來て、十一時過ぎまで話し込んで、とう〳〵泊ることになつちやつたんです。其れまで彼處へ泊つたと云ふ例はないんですが妹も一緖だし、差支あるまいと思つて、座敷へ蒲團を三つ並べて敷いたんですよ。すると、寢るときに春子が『あたし此處がいゝわ。』ツて、中央まんなかの蒲團へ入つたんでせう。其れがいかにも無雜作むざふさに輕く云はれたもんですから、僕も格段氣に留めないで寢ちまつたんです。今考へるとの調子なんぞ、全くうまいもんでしたね。」

「其座敷には灯がついて居たのかい。」

「いゝえ、僕は暗くないと寢られませんし、それにランプでしたから、危險だと思つて消して了ひました。春子は妹の方へ背を向けて、いつまでもコソ〳〵僕に話しかけて、なか〳〵寢さうもないんですよ。二時間ばかりさうして居るうちに、だん〳〵此方へ體を寄せながら、腕を伸ばして僕の手頸を押さへるんでせう。妹も寢られなかつたと見えて、其れまで我慢して居ましたが、とう〳〵夜具を被つてシク〳〵泣き始めたんです。其のお蔭で、まあ、際どい所を逃れましたがね。」

「若しも妹が知らなかつたら、隨分危いもんだつたね。」

「二人ぎりだと受け合ひませんが、側に妹が寢て居たんですから、たとへ知れないでも、そんな眞似は出來ませんよ。妹も後になつて、春子さんはわたしと同じ年だけれど、まるでする事が姉さんのやうだツて、皮肉を云つてましたつけ。―――此れでの女の性質は大槪解るでせう。」

「事に依つたら、もう Virgin ぢやないんだらう。」

「さあね、隨分そんな疑ひも起りますね。―――しかし、今になつても、僕は春子を憎いとは思ひません。兎に角あれ程に僕を慕つてくれたのだし、未だに未練があるらしいんですから、可哀さうな氣もしますよ。一生友逹附き合ひをして幸福を謀つてやる責任はあらうと思ふんです。」

と、佐々木は傷ましい顏をして云つた。

宗一は、一身の祕密を隱さず打ち明ける友逹の信義に對して、自分が今迄、美代子の事を厘毫りんがうも吿げなかつたのが、濟まないやうに感ぜられた。殊に、山口のやうな人間に洩らして置きながら、佐々木の耳へ入れないと云ふのは、どう考へても不都合である。自分の戀が、將來何の心配もなく、易々やす〳〵と成就するめでたい話なら、失意に沈む現在の佐々木に語らずとも宜いであらう。しかし、佐々木が宗一に胸中の苦悶を訴へると同じく、彼も佐々木の同情を求めたいのが、目下の狀態であつた。

「ところで僕も、昨今君のやうな問題に惱まされて居るんだよ。」

かう云つて彼は、川甚の折よりも更に詳しく、戀の成行なりゆきをこま〴〵と話して聞かせた。

「しかし、君のお父さんはよく解つた方ですねえ。」

佐々木は宗兵衞が何も云はずに金を吳れた處置に感心して、「ほんとに君は仕合せですよ。」

「あんまりさばけて居られるのも困り者だよ。だだ﹅﹅を捏ねて催促する事も出來ず、やけ﹅﹅になつて道樂する譯にも行かず、實際此の頃はヤキモキして居るね。―――君のお父さんは、どんな工合だい。」

「僕の親父も、決して解らない方ぢやありませんが、あんまり如才なさ過ぎて、人を欺すやうな眞似をするので、時々腹が立ちますよ。それに、何しろ僕が我が儘者ですから、腫物はれものに觸るやうにして御機嫌を取るんです。妹なんぞお父さんは陰險だと云つて、嫌ひ拔いて居ます。―――尤も、親父としては多少の政略も無理はないんですが、戀愛の問題なぞになると、どんな仲の好い親子だつて、感情の齟齬そごは免れませんよ。戀の味を知り初めたら、誰だつて家庭に不滿を抱くやうになるんです。」

「全くさうだ。………」

宗一は熱心に、佐々木の意見に賛成の意を表した。

「僕なんか、此れまで親父にも母親おふくろにも心服して居て、出來るだけの孝行を盡す積りで居たんだ。今日でも兩親の仕打ちに何一つ手落ちはなし、淚がこぼれる程有難いと感じながら、どう云ふものか、さつぱりうちが面白くない。九月に寮へ入つたのも實は其の爲めなんだ。それでも今度の休暇中に是非型を付けようと思つて、家へ歸つたんだが、一日不愉快で、落ち着かないで、仕樣がないね。兩親と遇ふのが嫌で、用事の外はめつたに階下したへなんか下りやしない。と云つて、少しも兩親が憎いんぢやないのだ。つまり兩親の顏を見ると、氣の毒で溜らなくなつて、自分の不幸なのが、悲しくなるんだらう。」

「けれども君は仕合せですよ。お父さんは行き屆いた方だし、美代子さんだつてなか〳〵考へがシツカリして居るし、そんなにヤキモキ心配する必要はないぢやありませんか。安心して、落ち着いて、吉左右きつさうを待つて居たらいゝでせう。」

「吉左右が來ると極まつて居れば、安心するけれど、さう譯なく運びさうもないんだよ。向うの家が、さつき話した通りの込み入つた事情なんだからね。」

「どんな事情があつたつて、美代子さんさへ、さう云ふ考へなら安心ぢやありませんか。君はたゞ、神を信じると同じやうに、美代子さんを信じて居ればいゝんです。大丈夫ですよ。吉左右に極まつて居ます。どうしたツて、一緖になれない筈はありません。れ程に二人が思ひ合つて居乍ら、結婚が出來ないなんて噓です。」

眞心の籠つた燃えるやうな舌に說き慰められて、宗一は氣が弛んだのか、遣る瀨ない胸の憂ひが一時に込み上げ、

「こんな所を君に見せちや恥かしいが、僕は美代子が可哀さうで仕樣がないんだ。」

かう云つたまゝ、つむりを膝の上へ伏せた。

「………美代子は望みがかなはなければ死ぬと云つてるんだぜ。さうなれば、僕だつて死にたいけれど、男は親に對する責任があるから、そんな譯には行かないぢやないか。だから可哀さうで仕樣がないんだ。」

「今から其れ程ガツカリする事はありませんよ。大丈夫ですよ。」

佐々木はうつむいて瞑目しながら、簡單な言葉に力を籠めて云つた。けれども宗一は容易たやすく泣き止まない。歔欷しやくり上げる聲がだん〳〵せはしく、遂に梯子段の下まで洩れさうになると、佐々木は狼狽して、女のやうに友逹の背筋を撫でつゝ耳元へ顏を近づけ、

「どうしたんです、君はあんまり悲觀し過ぎますよ。まあ、よく考へて御覽なさい。美代子さんが斷じて餘所へ行かない覺悟なら、いくら親が不賛成でも、結局君の所へ寄越すより外方法がないぢやありませんか。君だつて又、そんなに心配なら、遠慮せずにどん〳〵お父さんに催促したらいゝぢやありませんか。此の場になつて義理が惡いの恥かしいのつて、云つてる際ぢやありませんよ。結婚さへして了へば、結局圓滿に収まるんだから、一時の騷動や衝突なんか頓着しないで、ドシ〳〵押し切つて進んだらいゝでせう。さうなさい、さうなさい。君の生涯に關はる大事ぢやありませんか。」

佐々木の唇から流れでる勸吿のことばが、長い〳〵戀の歌でも聽くやうに美しく感ぜられて、宗一は久し振に快くさめ〴〵と泣いた。友逹にこんな手數をかけて、自らあやしまれる程淚に搔きくれて、それで漸く此の頃のもしやくしや﹅﹅﹅﹅﹅﹅が輕減されたやうに思つた。

「時に、もう何時でせう。」佐々木は袴の紐にからんだ銀鎖に手をかけて、

「十一時ですね。―――どうです、ちつと散步でもしませんか。」

「ま、飯を喰べて行き給へな。―――ほんとに失敬しちまつた。」

かう云つて、宗一はおもてを擡げたが、まだしやツくり﹅﹅﹅﹅﹅が止まらなかつた。

「御馳走になつても宜ござんすけれど、何か喰べに行きませうよ。氣が變つていゝぢやありませんか。」

「ぢや其處まで出かけて見よう。………君、眼の周圍まはりがまだ赤かないかい。」

宗一は明るい方へ顏を曝して云つた。

「その位なら判りやしません。」

二人は支度をして、梯子段を下りた。

「もう御歸りでございますか、まあおひるでも召し上つて………何にもございませんが、宗一、お前お止め申したらいゝぢやないか。」

お品はあわてゝ玄關へ送つて出た。

「はい、どうも每度伺ひまして、お邪魔ばかり致します。」

と、佐々木は上り端へ畏まり、叮嚀にお辭儀をして、中腰に立ちかけながら、

「橘君も此の頃はお丈夫で、結構でございますね。ではこれで失敬を致します。私の方は田舎で淋しい處でございますが、川崎へでもお參りに入らツしやいましたら、ちとお立ち寄り下さいまし。」

こんな風に挨拶する所は、質朴なしかしなか〳〵逹者な口ぶりで、お品には末賴もしい靑年のやうに思はれた。

戶外おもてへ出ると、佐々木は早速宗一に耳打ちをした。

「何ですね、君のおツ母さんは、話をしながら、始終氣を配つて眼を働かせて居ますね。同じ深切でも、散々苦勞をし盡した、複雜な心から出る深切と云つたやうなところがありますね。」

「君にもさう見えるかな。」

「そりや見えますとも。―――僕のマーザーなんか、人間は正直ですけれど、氣が小さくつて、怒りツぽくつて、其の癖馬鹿に臆病なんです。田舎の家へ知らない男がやつて來て、金を强請ゆすつたりなんかしようものなら、忽ち靑くなつて顫へ上るんですからね。何かの時には全く役に立ちませんよ。」

「役に立つ點から云へば、僕のマーザーは實際えらい﹅﹅﹅よ。兎に角箸にも棒にも懸からないやうな道樂者だつた僕の親父を、いゝ工合に操縱して了つたんだからね。母親の云ふ事だと、親父は一言もなく承知しちまふんだ。柔順なやうで、心底は案外シツカリした、惡く云ふと少しずるい﹅﹅﹅位利口なんだぜ。―――今度の事件なんぞ、親父よりおふくろの方が何うかと思ふ。」

「なあに、そんなことはありませんよ。マーザーだつて、お父さんの時分に散々經驗していらつしやるんだから、まさか無闇な壓制はなさらないでせう。」

「ハズバンドが大人しくなつたかと思ふと、今度は子供が心配をかける。―――マーザーも長い間苦勞する人間だ。」

二人はこんな事を云ひながら、中之橋を渡つて、水天宮前へ出た。

人形町の大通りは、もうすつかり新年の裝ひになつて、軒並に松を飾り竹を結び付け、大賣り出しや、福引の旗が方々に飜つて居た。菓子屋の店先には、眞白な、搗き立ての餅が、座蒲團のやうに積み重なつて居る。溝に沿うた露店の筵には、輪飾り、穗俵ほんだはら、蝦、裏白などが、所狹う展がつて居る。羽子板を冷やかす客、寄切よせぎれを見る女、いろ〳〵の人間が忙はしげに歲晚の町を右往左往する。

「おい、君、何處へ飯を喰ひに行かう。」

大觀音おほぐわんおんへお參りをして、出口の石段へ戾つて來ると、宗一はかう云つて立ち止まつた。

「何處でもよござんす。―――君はこゝいらをよく知つてるぢやありませんか。」

「うまい物を喰ひに行くのか、落ち着いて話がしたいのか、どつちだね。」

「此の邊の喰ひ物なら、僕には何だつてうまうござんすよ。靜かな、話の出來る所がいゝぢやありませんか。」

田舎者を標榜へうばうする佐々木は、江戶趣味の野村と違つて、花村なぞよりいつそ洋食屋の二階の方がいゝらしかつた。

宗一は末廣か鳥安へ行つて、久しぶりで好物のあひ﹅﹅鴨を喰べたかつたが、靜かなところと云ふ注文に懸念けねんして、茅場町の藥師の地内の丸金へ案内した。

下戶の佐々木が相手では、杯の數も進まず、鍋をまん中に、一本半ばかりビールを飮むと、直に飯を取つた。格別會談の興を添ふ可き話柄わへいも盡きて、二人は折々默つて了つた。一時間程で、其處を出ると、佐々木は鎧橋の袂で、

「それぢや、失敬しませう。」

と、云つた。

「まあ、もう一遍家へ來ないか。」

それでも獨りになるよりはいゝと、宗一は思つた。

「又にしませう。此れから丸善へ廻つて、買ひ物をしなけりやなりませんから。―――ところで、さツきの勘定は幾らでした。」

「あれはいゝんだ。」

「いゝえ、僕に半分出さして下さい。」

かう云つて、佐々木は一圓なにがしの錢を無理に宗一の手へ渡して、逃げるやうに駈けて行つた。

取引所の角から、兜町の方へ消えて了つた友逹の後姿を見送つて、宗一は再びとぼ〳〵と步を移した。鎧橋の左右に伸びた川筋の、一方は永代、一方は魚河岸の果てまで、毛程の曇りもない空が、秋の水のやうに冴え渡つて、石版刷の繪の色を想ひ浮ばせる。紅葉川の分れ口にある古い西洋館―――澁澤事務所の屋根から三四尺上に輝く日光が、鋸の齒を並べたやうな小網町河岸の土藏の壁に、まざ〳〵と黃色く漂つて居る。―――彼は、ふと、少年の折の事を考へ出した。七つ八つの時分、丁度肩の高さぐらゐある此の橋の手すり﹅﹅﹅に掴まつて、足許を通る往來ゆききの船を、ヂツと瞰下した事が度々あつた。橋桁の底へ潜つて行く船を視詰めて居ると、船が動かないで、橋が前進するやうに思はれる。其れが子供心に面白くつて、一艘、二艘、三艘と、次ぎから次ぎへ漕ぎ寄せる船を待ち構へつゝ、つめたい鐵の欄杆が自分の頤で溫まるまで、長い間眺め暮らした。其の頃の西洋館と云へば珍らしくつて、あの澁澤事務所の圓い柱や硝子窓が、どんなに彼の好奇心を募らせたであらう。いまだに彼はあの建築を見ると、西洋の封建時代の城砦に附隨するやうなローマンスを胸に描く。河竹默阿彌の脚本「しまちどりつきの白波しらなみ」に現はれたやうな、明治初年の風俗を憧憬する。

それから十五年あまりも歲月が立つて、自分はこんなに變つて了つた。二十一歲の暮も、あと五晝夜過ぎれば終りを吿げる。―――宗一に取つて、今年ほど忘れられぬ年はあるまい。去年の秋から持ち越した肋膜の大病が漸く直つて命拾ひをしたのも今年である。初戀の味を舐めてから、此れまでの人生觀が動搖し出したのも今年である。茅ケ崎から歸つて半年の間に茶屋酒を飮む度胸も附いた。親を欺く行為もあつた。贅澤な金の遣ひ方も覺えた。戀と學問とを、同じ程度に尊重する積りであつたのが、健康を恢復してから、彼はどれだけ勉强をしたであらう。どれだけ讀書をしたであらう。年内に讀破する決心で、手帳へ書き連ねた十二三册の書目のうち、一册として片附いたものはないではないか。去年の今日に比較して、どのくらゐ獨逸語は進步したらう。どのくらゐ單語の數を餘計知つたらう。功名と云ふ事、事業と云ふ事、其れ等を悉く忘却して、自己の全部を美代子に捧げて了ふ程、彼は自分を女々しい男とは氣が付かなかつた。

美代子の話は美代子の話として、此れから斷然勉强しなければならない。片時の猶豫もなく、直に家へ歸つて、讀書に取りかゝらなければならない。―――かう張り詰めて見るものゝ、二三町步く間に勇氣が沮喪そさうして、到底實行し難い事のやうに感ぜられる。問題の解決がつかぬうちは、失神した人間も同然である。美代子と完全な握手が出來ない以上、當分宗一の復活する道はなかつた。

銀杏八幡前へ來た時、彼は深い沈思の底から泛び上つて、體中の意識をハツキリさせて、あたりを見廻した。電車が二三臺置きに滿員の赤札を下げて、一杯の人數を運びながら、凄じく走る。切山椒きりざんせうを買ふお客が、多勢三原堂の店先へ押しかける。誰も彼も追ひ立てられるやうな顏をして、動いて居る。宗一は野路に行き暮れた旅人の如く、賑やかな四つ辻のまんなかに茫然と彳んだ。

此れから何處へ遊びに行くと云ふあて﹅﹅もない。家へ戾つて、夜になるまで、どうして時間を送つたら好からう。………彼は退屈凌ぎに、新年の雜誌を二三册あさり求めたが、かう云ふ時の暇つぶしには年始狀でも認めるのが一番いゝと心付いて繪葉書を三十枚と、書き好ささうな古梅園の毛筆を二本買つた。歸つたら早速、二階の書齋に端坐して、硯の墨を濃く擦つて眞白な紙の面へ「恭賀新年………」と揮毫きがうする樂しさを想像しながら、宗一は俄かに活氣づいて道を急いだ。

「唯今。」

と云ひつゝ、玄關の障子を開き、六疊の間を跨いで行かうとすると、お品は其處に裁板たちいたを置いて、獨りで火熨ひのしをかけて居た。

「佐々木さんはお歸りなすつたのかい。」

「えゝ、つい﹅﹅鎧橋のところで別れました。」

宗一は少し烟つたさうな面持ちをして梯子段の上り口に立ちすくんだ。

「ちよいとお前に話しがあるんだが。………」

まあ、此處へ來て坐れ。と云ふやうに、お品はちらりと宗一を見て、

「此の間お父さんから聞きましたが、出來る事ならお前の望み通りにして上げたいけれど、なか〳〵チヨツクラ行きさうもないんだよ。正月になつて嫌な話をするでもないから今の中に云つて置くがね。………」

「とても駄目なんでせうか。」

かう云つて、宗一はパタリと母の傍へ腰を落した。

「さうも云へないが、美代ちやんのおツ母さんが不承知らしいから、私やむづかしからうと思ふ。お父さんも心配なすつて、今月になつてから、二三度小田原へいらしつたんだよ。いろ〳〵手を換へ、品を換へてお賴みなすつたらしいけれど、何しろお綱さんは、若い時分から剛情な人でね。自分が斯うと云ひ出したからは、後へ引くやうな性分ぢやないんだもの。」

聞いて居るうちに宗一は、身が沈んで行くやうな、果敢はかなさ、便りなさを覺えて、悲しみが胸一杯に充滿した。

「わたしも美代ちやんなら差支ないと思ふし、殊にお前がさう云ふ考へだから、成る可く纏めるやうにしたいと思つたんだけれど、先方が許さない以上は、仕方がないぢやないか。お前、何とか考へ直して見る氣にはならないかい。」

「ほんとに駄目となつたら、考へ直すも直さないもありません。―――しかし、それでも、もう一遍賴んで下さる譯には行きませんか知ら。」

「そりや、春にでもなつて、又折があつたら話しても見よう。今のところ、お父さんだつてお忙しいから、さう〳〵小田原へもいらつしやれやしないよ。」

「私は決して急ぎませんから、兎に角もう一度お話しなすつて下さい。小田原の方だつて、美代ちやんが飽く迄聟を貰ふのを拒めば、いつか折れる時が來るでせう。いよ〳〵駄目だつたら、私は其の時まで待つてもいゝ積りなんです。」

「其の後、美代ちやんから手紙でも寄越したのかい。」

「あれきり音信いんしん不通になつて居ます。―――何も彼もお父さんにお任せした以上、當人同士は直接に往來しないと云ふ約束をしたんですから。」

「何卒此れからもさうしておくれ。本来ならかうなる前に、私の耳へ入れてくれゝばよかつたんだよ。それをお前が蔭へ隱れて、内々美代ちやんと相談なんかしたものだから、向うでも少しは氣持を惡くしたんだらう。今となつて、其れを云つても仕樣がないがね。―――たゞ私が心配するのは、お前が待つと云つたところで、此れから先何年かゝるものか判らない。美代ちやんだつて、だん〳〵月日が立つうちには、どう變らないとも限らないから、一途に其れをあて﹅﹅にすると、飛んだ間違ひが起ると思ふ。」

「しかし、私は美代ちやんの性質から考へて、其の點だけは疑はないんです。」

「いゝえ。此ればかりはナカ〳〵當人の思ひ通りに行かないものなんだから、いくら美代ちやんが其の積りで、堅い約束をしたからツて、先の事は判りやしないよ。當人同士は勿論、親と親とが立派に取り極めた許嫁でさへ、五年十年と立つうちには隨分破談になるぢやないか。お互に明日が日貧乏するかも知れないし、いつ何時病氣にかゝつて、死なない迄も片輪になるとか、一生直らないとか、―――そんな事があつてくれちや大變だけれど、人の身の上はどうなるか判らないんだから、其の時になつて、以前の約束を楯に取る譯にも行かなくならあね。それに女は氣が弱いから、親に手を合はされて、拜まれでもして御覽、いつ迄强いことも云つて居られないから。」

「私だけは、どんなに境遇が變つたつて決して違約しない積りです。けれども先がそんな薄情な眞似をするかどうか、其の場にならなければ何とも云へませんが、若しさうなつたら、私もキツパリ思ひ切ります。」

「お前は一槪に薄情と云ふけれど、さうばかりも云へやしないよ。だん〳〵年を取つて見れば解る事だが、いくら當人は一緖になりたくツても、據んどころない事情が澤山出來てくるのだから。―――私や兎に角、一旦あきらめて貰つた方がいゝと思ふ。さうして、お前が大學を卒業する迄には、五六年もあるのだから、其の後になつて、双方の心が變らないで居るやうだつたら、改めて話をしてもいゝぢやないか。何にしても、こゝのところ、當分そんな話は忘れちまつて、學校の方に精を出すと。さう云ふ風にしてくれないかね。」

宗一は何と答へてよいか、當惑して、眼の前に坐つて居る母親の白足袋の裏を視詰めながら、狛犬のやうに蹲踞うづくまつて兩手をついて、「宜しうございます。そんなら一旦あきらめて了ひます。」―――かう答へたら、勿論母は滿足する。前後の行き掛りが、自分に此の答へを、血を吐くやうな此の答へを餘儀なくせしめて居る。親に安心を與へる爲め、たつた一と言云つて了へば濟むのであるが、宗一には其れが口惜しかつた。眞の覺悟が極らないのに、一時逃れの挨拶をして、お茶を濁すのは快くなかつた。

「あきらめなければならない時が來れば、私も男らしくあきらめますから、もう暫くお見逃しなすつて下さい。いろ〳〵御心配をかけて濟みませんが、今のところ、まだ早計のやうに考へられて、どうもそれ程にする氣にはなれないんです。其の爲めに學校を怠けるとか、手紙の遣り取りをするとか、そんな不埒ふらちな眞似は一切致しません。以前の通り勉强もします。品行も愼みます。唯私が心の中で思つて居る事だけ、許して頂きたいんです。此ればかりは忘れろと仰しやつても、またいくら自分で忘れようとしても、容易に忘れられるものぢやないと思ひます。」

「忘れられない、忘れられないと思つて居るから、駄目なんだよ。お前の氣の持ちやう一つで、どうにでもなる話ぢやないか。―――出來ないと云ふなら、無理にとは言はないが、それで學校の方がおろそかにならないかね。口ではさう云つたツて、女の事に氣を腐らせたりなんかした日にや誰でも怠け癖の附くものだよ。みーんなさう云ふのがもとで、道樂を始めたり、財產を失くしたり、しまひには墮落をして了ふのさ。今時分から、色の戀のツて嫌らしい騷ぎをするやうぢや、ナカナカ出世は出來やしない。………」

母はクド〳〵と意見しながら、始終せはしなく手を働かせ、細々こま〴〵した着物のきれこんよく取り出して、順々に火熨斗ひのしを掛けて居たが、其れが濟むと、やがて長火鉢の傍へ立て膝をして、煙草を吸ひ始めた。態度と云ひ、調子と云ひ、別段氣色ばむでもなく、憎らしい程落ち着いて居る。

「お前は敎育のある人間だから、よもや間違ひはないだらうけれど、どんな利巧な者だツて、女の事では無分別が起るものなんだから………」

父にも母にも、「敎育のある人間」と言ふ言葉を、宗一は何囘聞かされるだらう。「敎育のある人間」は、心が鐵にでもなるのか知らん。

「勉强だけは必ずするから大丈夫だ、なんと思つたツて、其の通り行くものぢやないんだから御覽。ほんとに今が肝腎の時だよ。よウく考へて何かしないと、一つグレ出したら、一生の損になるよ。お前だつて、お父さんの若い時の事を知つてゐるぢやないか。それでも中途で眼がお覺めなすつたから、漸く取り返しがついたものゝ、今だつて、家は決してお祖父さんの時分の樣に好くないんだよ。わたしやいまだに、お父さんがあんな道樂をなさらなかつたら、もう少し何とかなつて居るだらうと思つて居る。―――お父さんも御自分に覺えがおあんなさるから、此の頃はお前の事をどのくらゐ心配していらつしやるか判りやしないよ。」

其の時臺所に續いた障子を開けて惡いところへ打つかつたと云ふやうに、お兼が恐る〳〵顏を出した。

「あの、おかみさん鐵瓶が沸騰にたちましてございますが、後へ何をかけますんですか。」

伽羅蕗きやらぶきを煮るんだから、さつきのお鍋を掛けといておくれ。今わたしが行つて見ますから。」

母はぽんと煙管をはたいて、

「まあ、こんな事は當人の心次第で、ハタがいくら八釜やかましく云つても無理な話だから、二三日とつくり﹅﹅﹅﹅考へて見るさ。わたしが此れ丈云つたんだから、お父さんは改めて何も仰しやるまいと思ふ。」

かう云つて、立つて行つた。

どうなる事かと案じて居たのに、からくも放免されて、宗一は胸を撫で下ろしながら、逃ぐるが如く梯子段を上つた。さうして買つて來た雜誌や繪葉書を机の上へ放り出して、惱ましげに腕組をしたまゝ、書齋の中をグル〳〵と廻り始めた。丁度三廻りばかりして四度目に本箱の前へやつて來た時、パツと電燈のあかりがついた。まだちつとも暗くならないのに細い赤いカーボンの線が電球の中にぼんやり光つて居るのを見ると、心がせか〳〵と焦ら立つやうに感ぜられて、彼はいきなりパチリとスヰツチを拈り返した。

「お父さんは、改めて何も仰つしやるまいと思ふ。」

―――此の言葉から察すると、母は明らかに父の意を體して、伜に忠吿したのであらう。事に依つたら、父の寛大を齒痒く思ひ、母が自ら進んで、憎まれ役のしように當つたのかとも邪推される。放任主義の父の遣り方としては、少し干渉し過ぎるやうである。父だつて昔の事を考へたら、そんなに强い事を云へる筈がない。色戀に關して立派な口が利けるのは、自分だけであると云ふ地位を利用して、母は伜の監督權を父の手から奪ひ取つたのであらう。………

戶外おもてを步いて居た間に、火鉢の炭がすつかり灰になつて、部屋はしんしん﹅﹅﹅﹅凍切こゞえきつて居た。寒さがうら寂しい彼の心に沁み徹つて、一層悲しく情ない感慨を催さしめる。何にしても、此の惶しい歲晚の五日間が早く過ぎてくれればいゝ。正月になつて、一陽來復の春めいた景氣に出會つたならば、少しは氣分も引き立つであらう。………彼があれ程苦に病んで居た問題が、こんなに突然、こんなに雜作なく、且こんなに不得要領の結末を吿げようとは思はなかつた。もう家に燻つて居る必要はないのだから、若し兩親が許すならば、彼は何處へなりと旅行に出かけて了ひたかつた。

出かけるならば、人里離れた山奧の、雪に鎖された溫泉宿へ籠りたい。眞綿のやうな雪がこんこんと降り積つて、谷を埋め川を塞ぎ、庇の垂氷つらゝの三四尺も下るやうな一軒家に隱れて、戀の炎を封じ込めて了ひたい………。

冬の休暇になつてから、中島と淸水は歸省して了ふ。野村と大山は旅行に出かける。山口は千駄木の安下宿へ移る。杉浦一人が、寄宿寮へ踏みとゞまつて、朶寮一番の寢室を我が物顏に橫領して居た。年末のソハ〳〵した空氣も、向陵の門内へはまるきり吹き込まない。授業の鐘は鳴らず、朝寢坊の邪魔は這入らず、いつも蒲團を敷き放しにして、森閑とした晝の靜けさに無聊を喞ち、夜になれば山口を誘つて、銀座通や淺草公園や、下町の賑やかな景氣を見物に步く。其のうちにとうとう大晦日の晚となつて、しよざい﹅﹅﹅﹅なさに宵の九時頃から眠つて了つた。

元日の朝は彼も例になく早く起きて、國許から屆いた地織木綿の綿入のつむぎの紋附を重ね、少しばかり身じまひを整へて食堂の雜煮を喰つた。寒い事は寒いが、風が止んで空が晴れて、申し分のない天氣である。保證人の家と、縣の寄宿舎と二三軒年始に廻つて、それから橘でも訪ねようか知らん、と思つて居る所へ、

「おめでたう。」

と云ひながら、山口が飛び込んで來た。此れも珍らしくさかやき﹅﹅﹅﹅あたつて、靑々とした髭の跡を撫でながら、至極涼しさうな顏をして居る。親讓りの古物らしい縞絲織の羽織に、嘉平次の袴を穿いて、妙にピカ〳〵と取り濟ました樣子である。杉浦は一と眼見ると、何も云はずに腹を抱へて吹き出しかけた。

「何を笑うとるんぢや、杉浦さん。」

「だツてあんまり可笑しいからよ。お前のさうやつた處は、どうしたツて私立大學生だぜ。一體何と思つてソンナ服裝なりをして來たんだよ。實際不心得千萬な男だ。」

「不心得千萬だツて、今日は正月ぢやがな。君も何だかめかし﹅﹅﹅とるぜエ。」

「いや、僕のは何でもないさ。―――お前の着物は、そりや一體何だい。いやに絢爛の美を極めてるね。」

「ふむ、此れか。」

と、山口は得意らしく自分の胸を俯向いて見て、

「こりや、昨夜まで質に入れてあつたんぢや。―――ゆうべ漸う煙草屋の娘に工面させて、出して來たんぢや。」

「へーえ、もうそんな事を始めたのかい。―――其の後何か面白い事でもあつたのか。」

杉浦は年始を其方除けに、落ち着き拂つて其の場へ坐り込んで了つた。

「面白いよりは、少し大變な事件が起つとるんぢや。こりや未だ君に話したうもないがな。」

「構はないから、話して了ふさ。なんだ大事件と云ふのは。」

「煙草屋の娘に別な男のあるのを發見したんぢや。」

話したうもないと云ひながら、山口は直ぐと口をすべらして、

「詳しい事を云うてもいゝが、何處か戶外で飮まうぢやないか。君、正月だから、わしに酒を御馳走せい。―――それとも年始に行くのかな。」

「年始なんぞ、いつでもいゝんだ。これから橘の處へ行つて御馳走にならう。―――先生此の頃は屈託してるから、大槪今日等は内に燻つて居るよ。」

實は杉浦も、遲延に遲延した授業料を漸く二三日前に納めた爲め、正月早々一圓の小遣ひすら持つて居なかつた。

二人は空屋のやうな學校の門から連れ立つて、春めいた本郷通の大道へ出た。去年の暮から飾り付けた門松も、今は一と入整然として、さすがに町は陽氣である。

「此の前の冬は故國くにへ歸つて知らなかつたが、やつぱり東京は面白いなあ。」

と、杉浦は小首をかしげて、しきりに都會を讚嘆する。

「橘さんの近所はモツト面白いぜ。わしや芳町の藝者の姿が拜みたうてならん。」

山口の口にかゝると、藝者と云ふ者はまるで神樣のやうに、貴く有難く取り扱はれて居る。

電車の中も、山高帽や七子なゝこの紋附や、酒臭い息の男が澤山乘り込んで、赤い顏を並べて居る。淺草橋から兩國を過ぎて、追ひ〳〵下町へ入つて來ると、

「ほう………。」

と、山口は時々黃な聲を發して、戶外を指さしながら、

「ちよいと杉浦さん、あれを見い。下町の娘は綺麗だなう、何處となく垢拔けがしとるから不思議ぢやなあ。」

かう云つて、恐い程眼を見張つて、念入りに目的物を睨みつける。

屠蘇とその醉の廻つたらしい廻禮の人々が通る。塗り立てのゴム輪の俥が何臺も往來する。立矢たてやに萌えたつやうな鬱金うこん扱帶しごきをだらりと下げた娘逹が、カチンカチンと羽子はねを衝いて居る。皮羽織を着た鳶の頭が、輪飾りの下を潜つて、手拭ひを配つて步く。獅子舞ひの太鼓の音、紙鳶たこの唸り。―――人形町は水天宮の緣日で、殊に雜沓が夥しい。山口の樂しみにして居た芳町の藝者が、出の着物を着飾つて箱屋を從へ、彼方此方の新道から繪のやうな姿を現はす。

濱町へ訪ねて行くと、果して宗一は在宅であつた。

「やあ、おめでたう。―――何卒二階へ。」

と、機嫌よく云ひながら、玄關に飛んで出て來た。

家の前には、虎の皮のしとねや、びろうどの膝掛けが着いたいかめしい人力が二三臺待つて居た。立派な疊表だの柾目の正しい男物の下駄が、踏み石に一杯揃へてあつて、突き當りにある萬歲の衝立の向うには、五六人の年始の客が落ち合つて居るらしい。宗一の母と思はれる女の聲と、客の男の笑ひ聲とで、賑かな座敷はゴタゴタに賑はつて居る。

丁度二人が宗一に案内されて、廊下の方から曲らうとする時、衝立の後の襖がスラリと開いて、

「や、それでは、もう此れで御免を蒙ります。」

と、美々しく盛裝した五十恰好の男が、仙臺平の袴をキユツキユツと鳴らしながら、玄關の帽子掛けの下に立つた。

「宗一ツつあん、お友逹がおいでゞげすかな。」

かう云つて、獵虎らつこの襟卷を結んで、外套を肩に、ちよいと反身そりみに構へて見せる。髮の脫け上つた、赤ツ鼻の、氣の好ささうな爺さんである。

「………唯今おツ母さんに伺ひましたが、昨年あんなにおわづらひなすつたのに、學校を及第なすつたつてえなあ、驚きやしたなあ。もう再來年さらいねんは、大學だてえぢやありませんか。」

「えゝ、お蔭樣で。」

「ふうん、早いもんですなあ。」と、鼻の穴を膨らがして、二三度頤を强く引いて、

「なんしろ、お父さんはお樂しみだ。何ですぜ、ちとお休み中に宅へも遊びに入らつしやい。ね、ようがすか、三日の晚に娘逹が骨牌會かるたくわいをやるさうだから、其の時がいゝ。」

こんな事を云ひながら、例の虎の皮の俥へ乘り移るや否や、顏を平手で撫で下すと同時に、きちんと取り濟まして、梶棒を上げさせた。

「學校を及第なすつたてえなあ、驚きやしたなあか。」

杉浦は廊下を案内されながら、口眞似をして、

「ありや一體何處の爺さんだい。」

「やつぱり兜町の人間さ。大分醉拂つて居るんだ。」

「醉つてるかも知れんが、好い年をして、滑稽な人間が居るねえ。―――橘宗一君も、下町へ來ると嶄然ざんぜん頭角を露はして、秀才面をして居るから面白いナ。」

「けれども、三日に骨牌會のあるのはいゝぜエ。橘さんの人の娘は別嬪かどうぢや。」

三人縱に並んで、窮屈な螺旋の梯子段を上る時、一番下の方から山口が云ふ。

「そんなによくはないよ。」

「しかし、君は行くんぢやらうがな、どうだ、わしも連れて行け。」

「お前のやうな惡黨は、女の居る所へはとても連れて行かれないよ。新年早々、煙草屋の事件に就いて、非道い報吿を齎して來てるのを、橘は知つて居るか。」

三人は二階へ上つて、蒲團に坐るまで、始終休まず話し續けた。宗一も久し振で心配を忘れたやうに、元氣よく語つた。

「ひどい報吿と云ふのは何だい。」

「煙草屋の娘に立派な男があるんださうだ。山口は道德上 Adultery を犯して居るんだから怪しからん。」

杉浦は居丈高になつて說明し始める。

「まあ、其の話は止してくれや。わしや君に云はんと置けばよかつた。」

「云はんと置けばよかつたつて、そりや知れるから駄目だよ。惡黨も惡黨、他人の女を押領あふりやうするとは、實際驚きやしたなあ。」と、又爺さんの口眞似をして、

「どうせ判つたんだから、酒でも飮みながらすつかり白狀したら好からう。―――橘どうだい、山口を少し醉はせないか。」

「うん、御馳走してもいゝ。」

今迄書生の友逹が訪ねて來ても、酒だけは出したためしがないから、母が許すかどうであらう。宗一は其れを危ぶんで、若し許さなかつたら、近所の鳥屋へでも飮みに行かうと、腹を極めた。さうして、階下したへ下りて行つて、

「おツ母さん、ちよいと。」

と、客間の外の緣側から呼んだ。

「お友逹に何か御飯を出してくれませんか。二人共お酒が行けるんですが、飮ませちやいけませんか知ら。」

「さうさね、みんな大學の方なんだらう。」

母は襖の間から、首だけ出して、

「修行中はマア止した方がいゝけれど、不斷と違つてお正月だから、上げるならお上げなさい。お重に辨松べんまつの料理があるから、有り合せ物だけれど、あれでもお肴にしてね。―――お兼に云ひ附けて、支度をさせたら宜からう。」

かう云つて、承知してくれた。

やがて三人は二階で杯の遣り取りを始めた。

「君ン處の酒はいゝ酒だなあ。此れで漸く正月らしい氣持になつた………。」

「山口を醉はせるんだ。」と宣言して置きながら、一番先に杉浦が醉拂つて、

「おい、早く一件をちまけたらいゝぢやないか。」

と、執拗に肉薄する。

「話してもいゝが、Adultery などゝと云はんでくれや。そりや多少不道德な行爲かも知れんが、わしや始めに男のあるのを知らなかつたんぢや。娘は最近になるまで、其れを知らせなかつたんぢや。つまりわしが娘に欺されたんぢやと思ふ。」

「あんまり欺される柄でもないぜ。」

「ま、さう云はないで。」

と、宗一は制して、

「しまひまで默つて聽く事にしよう。其の男といふのは何者だい。」

「大學生ぢや。」

「大學生ツて、帝大なのかい。」

「帝大ぢや。其奴の事はあんまり尋ねんで置いてくれ。あの娘は家が貧乏の癖に、女學校へ通つて居るんぢやが、其れはみんな男の方から學費を給してやつとるんぢや。なんでも大學生があの娘に惚れ込んで、女學校をやらせる代りに、エンゲーヂしたいんぢやさうな。尤も娘は不服ぢやさうなが、親父が壓制的に取り極めるかも知れんと云ふ。」

「ほんたうに不服だつたかどうか、あンな娘の云ふことがアテになるかい。」

杉浦が嘴を入れた。

「いや、そりや恐らく本當なんぢや。親父と云ふ奴は、極く舊弊な頑固な人間だから。―――兎に角、現在は其の男よりわしの方に惚れて居るのは確かなんぢや。」

「そりや女の事だもの、一遍でも關係のあつた方に惚れるのは當り前さ。何と云つてもお前の誘惑したのが惡いんだよ。」

「惡くないと云やせんが、娘だつて隨分不都合なところがあるぜエ。關係のあつたのは、わしばかりぢやないんぢや。ありや恐ろしい淫婦ぢやがな。」

「君と不都合のあつた事が、もう男へ知れちまつたのかい。」

「そんな、露顯するやうなヘマはやらんよ。此れから先、萬一氣が付いたつて、證據がなけりやどうもならん。」

山口は傲然と空嘯いて、杯を唇にあてた。醉が廻つて來たと見えて、以前のやうに悄氣しよげては居ない。襟頸から耳朶みゝたぼの緣を好い色にさせて、眉毛まで眞赤に染まりさうになつて居る。

「お前、此れから先も、依然として繼續する了見なんだらう。」

「うん、さうぢや。」

あたり前だと云はんばかりに、山口は輕く頷いて、

「判りさへせんけりや、當分吉原へ行かんでも濟むだけでも得ぢやらうがな。」

「ひどい奴だなあ。」

杉浦はわざと仰山ぎやうさんに、甲走かんばしつた聲を出した。

「ヘマをやらん積りだつて、長い間にはきつと知れるに極まつて居るから笑止千萬だ。ほんとだぜ、山口、好い加減に止した方がいゝぜ。」

「さう頭からケチを附けんでも好からう。―――君はわしの事を一々ケナシ居るが、そりやどう云ふ譯なんぢや。をかしい男ぢやなあ。内々面白がつて居る癖に、口ではモーラリストのやうな事ばかり云うて居やがる。―――杉浦さん、惡い事を云はんから、君一遍道樂をせい。君は利口な男なんぢやから、少し道樂をすると、屁理窟を云はんやうになる。」

「餘計なお世話だよ。道樂をしなくつても、お前の氣持ぐらゐ大槪解つて居るよ。………」

二人は川甚の二の舞を演じさうに、凄じい顏をして睨み合つた。

「僕は決してモーラリストぢやないが、無理に道德に反抗して痛快がつたり、新らしがつたりするのは、今ぢやもう古いよ。實際無意味な話だよ。今日の社會は、さう云ふ生半可なまはんかの近代人の多きに苦しんで居るんだから、道德に遵奉しない迄も、何とか新機軸を作らんけりやあならんね。僞善の人を誤るよりも、寧ろ僞惡の人を誤る方が、どのくらゐ有害だか知れやしないぜ。世間では多く功利主義の道德を目して僞善と云ふけれど、其のくらゐの程度の道德を持つて居ることは一應必要だらうと思ふ。勿論其れが、根柢のある人生觀の上に築かれて居なくつても差支ないんだ。寸毫も自己の Sincerity を傷つけやしないんだ。」

かう云つて杉浦は眞面目になつた。

「さう云ふ話は、わしにやよく解らんがな。」

と、山口は默つて了つた。到底議論をしても、抗はないとあきらめたらしい。

「橘、君は嘗て佛敎か耶蘇敎の信者になつたことがあるのかい。」

杉浦は山口の相手にならぬのを見て、今度は宗一に話しかけた。

「佐々木にかぶれ﹅﹅﹅て、二三度敎會へ出入りしたが、其れも僅かの間だよ。今ぢや全く信仰なんか持つて居ない。―――僕なぞは宗敎に賴つて生きて行ける人間ぢやないんだが、一時熱に浮かされたんだね。クリスチヤンを標榜して居る時代でも、今考へると本當の信仰があつたかどうか、怪しいものさ。」

「佐々木はいまだに信者なのかい。」

「先生も僕が止めようとした時には散々忠吿した癖に、いつの間にか還俗げんぞくしたから可笑しいよ。しかし思ひ切りが惡くつて、『僕にはどうも神の存在を全然否定する氣になれない。』と云つて居るがね。一體何かに感じ易い男なんだから、いまだにエマーソンやカーライルを讀めば、直ぐと動かされるんだ。どうしても彼は文學者よりプリーチヤーの方が適任だね。―――ま、あゝ云ふ人間は、始終何かに刺戟されて、緊張したライフを送つて行けるだけ幸福だよ。」

「あんまり幸福でもないさ。―――そんなライフは煩悶が少くつて氣樂かも知れないが、決して羨ましいとは思はんぜ。何の爲めに僕等は學問をしたんだ。何の爲めに僕等は知識を要求したんだ。われ〳〵はモウ少し眼を高い所に据ゑて、努力を續ける必要があるよ。神を信じたり、女に惚れたりして、濟まして行かうとするのは恥づ可きことだ。苦しくつても淋しくつても、光榮ある孤立を維持して行く人間があつたら、それが一番えらい﹅﹅﹅んだ。僕の如きは、たしかに其の一人たるを失はないね。」

酒臭い息と一緖に議論を吹き掛けながら、杉浦は肩を怒らし、眼をむき出して夢中になつて居る。傍若無人に滔々と喋り捲くる樣子は、あんまり苦しくも、淋しくもなさゝうである。さうして、時々ガブリ〳〵と水でも飮むやうに酒を呷つた。

「かう見えても、實際僕は寂しい人間だよ。山口が Adultery をする。橘が美代ちやんを追つ駈ける。佐々木が春子を振つたり惚れたりする。此の間に處して、僕の孤立は眞に偉とするに足るね。野村江戶趣味とか、淸水クリスチヤンのやうな眼の低い連中は、彼等相應のライフに甘んじて居るからいゝが、吾輩不幸にして眼識一世に高く、天下に賴る可き何物の價値をも認めない爲めに、斯くの如く孤立して居る。どうだいえら﹅﹅からう。」

かう云つて、盃を置いてごろりと橫になつた。

宗一も杉浦の氣焰を聽きながら、知らず識らず量を過ごした。額の皮が、鉢卷をしたやうに痺れて、動悸が激しく體中へ響き、坐つて居てさへ、ふら〳〵と眩暈が起る。舌の附け根から、不快な生唾吐が湧いて、口中が引き締められるやうである。こんなに醉つたのは生れて始めてゞあつた。

後の二人もやがて橫になつて、パチ〳〵と豆をるやうな追ひ羽子の音を遠くに聞きつゝ、のどかな元日の晝をとろ〳〵﹅﹅﹅﹅と眠つて了つた。

十二月の試驗の結果が、本館の廊下の壁へ貼出されたのは、七草の頃であつた。淸水は豫期の通り野村を追ひ越して、英法の一の組の主席を占めた。野村は三番、杉浦は四番、宗一が八番。―――英文の方では大山が主席になつて、朶寮一番の連中はみんな中以上の成績をち得た。

淸水は遇ふ人每に冷かされて、

「いや、アレは君、全く僥倖げうかうに過ぎないよ。全體試驗なんてものは Lottery のやうなものだから、あれで實力を測ることは出來んさ。」

と、言ひ譯して廻つて居る。宗一はいつかの日記の事件を想ひ出して、小憎らしいやうな、をかしいやうな心地がした。

野村は主席から三番目まで落ちたにも拘はらず、格別悲觀して居なかつた。ふだん自分の頭腦の許す範圍で、急がず騷がず氣樂に勉强して、大槪相当な成績さへ得れば、それほど不平はないのであらう。

「野村は人が好いだけあつて、胸にこだはり﹅﹅﹅﹅がないから、每日コツ〳〵勉强して居られるんだね。試驗になつても、別段惶てないで、可なり成績のいゝところは、模範學生だよ。尤も學問に對する頭は、元來惡くないんだらう。」

と、惡口屋の杉浦も感心して居る。

しかし杉浦自身が遊び放題遊び暮らした上、僅か四五日準備したゞけで同級生四十人中の四番目に居るのは、最も不思議な現象であつた。

「君は實際いゝ頭を持つて居るなあ。」

かう云つて宗一が感心すると、

「それはさうさ、君は僕の頭の好い事を今知つたのかい。」

と、得意の鼻を蠢かして、

「それより山口の成績のいゝのが、餘程氣拔だよ。每日のやうに女を買つて居て、よく元氣が衰へないもんだね。」

こんな事を云つた。

成る程、山口は佛法の十二三番に踏みとゞまつて居る。英文科一年の佐々木の方は、春子の一件が打擊になつたと見え、前學期より二三番下つて、まんなか頃に挾まつて了つた。

今迄にない懶惰らんだな生活を送つた報いに、嘸かしみぐるしい成績を見るだらうと懸念して居た宗一は、相變らず十番以内に入れたのを意外に感じた。頭腦の好い證據とするよりも、寧ろ在來の惰勢の結果とする方がたしからしかつた。けれども此の惰勢がどれだけ續くものであらう。美代子の問題に埒が明かぬ限り、此の放逸な狀態が改まらないとしたら、來學期の慘めさはどんなであらう。其の場合を想像すると、小學校以來一度も十番以下に甘んじた經驗のない彼の自尊心は著しく傷つけられた。

「しかし君なんざ、少しぐらゐ遊んだつて大丈夫だから、心配はないぢやありませんか。―――それより僕の方がどんなにミゼラブルだか、考へて御覽なさい。」

佐々木は其の朝、運動場で宗一を捉へると、慰めがてらいろ〳〵な愚痴をこぼした。彼は宗一よりも一層神經質なだけ、成績の不良に殊更胸を痛めて居た。

「春子の事があつたりすると、とても本なんか讀んで居られやしませんよ。去年の後半期と云ふものは、間斷なく頭の中に Storm が續いて居て、殆ど何に費やしたか、今から考へると無茶苦茶ですね。ほんとに恐ろしいもんです。」

佐々木は陰鬱な調子で、俯向いたまゝ後庭の草原を步みつゝ語つた。

「君は運が惡いんだよ。杉浦でも僕でもあんなに怠けたのが、其れほど影響して居ないんだもの。山口と來た日にや、あの通りの不行跡をやつて、依然として十二三番に漕ぎ付けて居るからね。」

「そりや、山口君なんぞとは氣持が違ひます。」佐々木は昂然と首を擡げ、

「どうして、どうして、僕が春子から受けた打擊は非道いもんですよ。山口君のやうな、呑氣なのとはまるで一緖になるもんですか。君にしたつて、隨分頭を使つたでせうが、君はまだ、男性的な、强い氣象があるから好ござんす。………」

「僕を强いと云ふのは、君ぐらゐなもんだよ。」

「いゝえ、君は强うござんすよ。僕なんぞ我れながら腑甲斐ないと思ふくらゐ、決斷力がなくつて、女々めゝしくつて、お話しにならないんです。」

何でも彼でも、彼は自分の煩悶が一倍深刻であると極めて居るらしかつた。

「それにしたつて、君はもうきれいに春子さんと手を切つたんだから、此れから十分に讀書が出來るだらう。」

「えゝ、さうしたい積りですが、當分精神がぼんやりして、仕事が手に付かないで困ります。君にしても、同じことでせう。やつぱり今學期も入寮なさるんですか。」

「うん、多分明日あたり入寮するだらう。―――實は今日と思つたんだけれど、晚に近所で骨牌會があるから、もう一晚家へ寢ることにした。若し都合が宜かつたら、君も一緖に骨牌へ來ないか。」

「一體どんな家なんです。」

「親父の知つて居る仲買人の本宅さ。成る可く多く友逹を誘つて來てくれつて、賴まれて居るんだから、一緖に行つて見ないか。遲くなれば、僕の所へ泊まつてもいゝ。―――君の好きな下町風の娘が澤山見られるぜ。」

かう云つて、宗一はにや〳〵笑つた。

「さうですね、行つても好ござんすね。」

と、佐々木は同じく妙に笑ひながら、煮え切らない返答をした。

「そんなら、直ぐと飯を食つて出掛けよう。一時迄に集まる約束なんだから。」

二人は淀見軒の安いまづい洋食で晝餐ちうさんを濟ますと、三丁目の停留場へ急いだ。寒空のところ〴〵にちぎれちぎれの雲が散亂して、烈しい北風が、砂埃を捲き上げつゝすさぶ日であつた。乘手の少い電車の中に、ぴつたり體を摺寄せ乍ら、二人とも澁い顏をして膝頭を顫はせた。

茅場町の四つ角で下りて、植木店うゑきだなの橫町へ曲ると、杵屋の家元から二三軒先の小粹な二階建の前で宗一は立止まつた。

「あゝ、此處ですか。」

と云つて、佐々木は「淺川」と記した軒燈の球を仰いだ。大分來會者が集まつたと見えて、家の内からなまめかしい女の囀りが、たけなはに聞えて居る。板塀の上の二階座敷にはきやしや﹅﹅﹅﹅な中硝子の障子が締まつて、緣側の手すり﹅﹅の傍に籐椅子が一脚据ゑてある。格子を開けると、ちりん〳〵とけたゝましく鈴が鳴つた。

「今日は。―――一人ぢや心細いから、友逹に援兵を賴んで、とう〳〵やつて來ました。」

玄關に現はれた四十三四の、如才なささうなかみさんに挨拶して、宗一は活潑に口を利いた。

「おや、ようこそ、さつきからみなさんが宗ちやんを待ち焦れて居るんですよ。」

上さんは佐々木の樣子を盗み視てから、再び宗一を振り返つた。

「お友逹はお一人なの。もつと多勢さんで入らつしやればいゝぢやありませんか。―――さあ、さあ何卒お上んなさい。」

かう云ひながら、二人の脫ぎ捨てた外套を片寄せて、

「ちよいと、誰か皆さんのお穿き物をチヤンと直してお置きなさいよ。こんなに土間が散らかつて居ちや、足の入れ場がありやしないやね。」

と、高い調子で叱言を云つた。

佐々木は宗一の後へ附いて、遠慮がちに身をすくめつつ玄關へ上つた。丁度突きあたりの芭蕉布ばせうふの唐紙の、一寸ばかり開いた隙間から、ずらりと居並んだ令孃逹の花やかな衣服の色彩が、細長い六歌仙の縱繪のやうに窺はれた。すると忽ち、其の繪がお納戶地の縮緬の羽織で一杯に塞がれたかと思ふと、冴え冴えした、黑味がちの圓い瞳が、白い頰を襖の緣へ押し着けて、一生懸命に此方を隙見して居る。佐々木は極り惡さに下を向いた。

「お勢ちやん、何をしてるんだい。」

宗一はかう云つて、瞳を追ひ駈けるやうに其處を開けると、座敷の中へ入つた。矢庭にお勢は疊へ突つ伏して、

「おほゝゝゝ。」

と、頓狂に笑ひ崩れた。二十前後の、發逹し盡した豐かな肩の肉が、笑ひを堪へる息づかひと一緖に、背筋のあたりでグリ〳〵と力强く動いて居る。

新らしい靑疊の八疊の間に、つむぎの座蒲團だの、桑の煙草盆などが秩序よく置かれて、煙草の煙や炭火の熱が、少しカツとする樣に籠つて居た。床框とこかまちの前と、緣側に近い柱の傍と、二箇所に据ゑられた大きい桐の火鉢の周圍まはりへ、七八人の男女が花瓣の如く取り縋り、互に肘を張り合つて、骨牌のうまさうな、細長い手先をあぶつて居る。緣側の向うには、下町に珍らしい、こんもりとした植込みがあつて、生茂つた枝葉の透き間から小さな稻荷の祠が見える。佐々木は一人離れて、一番遠い座蒲團の方へ腰を下ろした。

「此れは僕の友逹で、一高の文科の佐々木と云ふ人です。」

宗一が紹介すると、みんな一度に佐々木へお辭儀をした。

「宗ちやん、佐々木さんにもつと此方へ來て頂けなくつて。」

と、二十一二になる此處の娘のお靜と云ふのが、火鉢を包んだ一團の中から首を擡げた。すらりとした鶴のやうな撫で肩へ、地味な絣の大島お召の羽織を纏つて、銀杏返しの鬢の毛をふるはせながら、きれいな、メタリツクの聲を出す樣子と云ひ、引き締まつた目鼻立ちと云ひ、新派の喜多村にそつくりの女である。

「靜ちやん、君は默つていらツしやいよ。高等學校の方はみんなお勢ちやんのお受持ちでさあ。」

かう云つたのは、頭をてか〳〵と分けた、にきび﹅﹅﹅の痕のまだ消え切らない男である。毛絲のシヤツの上へ、襦袢や胴着や絣の銘仙のつゐの綿入や、何枚も寒さうに重ね込んで居る。

「あら噓よ、澤崎さん覺えていらツしやい。」

突伏して居たお勢は急に起ち上つて、さも憎々しさうに睨みつけた。

「だつて、さうぢやありませんか、ねえ。」

と、澤崎は圖に乘つて嬉しがつて、

「君は一高の生徒が好きだつて云つたぢやないか。」

「あたし、何時さう云つて?」

「云つたとも、云つたとも。―――此の間僕と一緖に本郷通りを步いた時に、後から一高の生徒が來たら、『あたしの人にハンケチを拾はしてやるんだ』ツて、君はわざとハンケチを落したぢやないか。」

「あら、噓よ。」

お勢は慌てゝ取り消したが、一座は可笑しがつて、笑ひどよめいた。

「へーえ、それからどうしたの。とう〳〵拾はしたんですか。」

と、お靜が訊いた。

「えゝ、とう〳〵其の學生が拾つて、お勢ちやんにお渡ししたんです。『ほら御覽なさい。拾はせてやつたでせう。』ツて、お勢ちやんは得意になつて居るんです、僕ア驚いちやつた。」

澤崎は一座の幇間のやうな格で、頻りと滑稽な仕業や辯舌を弄しては、如才なく娘逹に愛嬌を振り撒いて居る。人を毛嫌ひする癖のある宗一は、何となく嫌な男だと思つたが、それでもお勢の氣拔な行動には、吹き出さざるを得なかった。

「君のハンケチなら、僕等はいつでも拾つて上げるぜ。」

かう云つて、彼は萎れ返つて居るお勢の顏をなぶるやうに眺め込んだ。

「宗ちやんお止しなさいよ。あんまりからかふと、お勢ちやんだつて怒つちまふわ。―――それよりか、もうそろ〳〵始めなくつて。」

お靜は宗一を睨めて、骨牌の箱を取り寄せた。

同勢九人のうち、一人が迭る迭る讀手になつて、四人づゝ二組に別れ、何囘も勝負が行はれた。宗一も佐々木も一度づゝは總ての人を敵に廻して札を爭つた。一番上手なのは澤崎で、「ハツ」「ハツ」と景氣の好い掛け聲を浴びせながら、指先で撥ね飛ばす働きの素早さ。骨牌は彼に彈かれると、燕のやうに室内を舞つて走つた。其の間も、彼は種々雜多な身振手眞似を弄して、敵方を笑はせ、狼狽あわてさせ、威嚇かす可くあらん限りの術策を施すことを怠らない。勝敗の埒外らちぐわいに出て、歌を讀み上げる時でさへ、得意さ加減、可笑しさ加減は一と入で、「天津テンシンプウ雲のかよひ路」だの、「むべサンプウを嵐」だの、「振さけ見ればシユンジツなる」だの、いろ〳〵の讀み方を心得て居て、薩摩琵琶のやうな節になつたり、浪花節のやうな音になつたり、激しくなると、「天智天皇あきんどの假り寢の夢」だとか「菅家紺の足袋たびは黑くて丈夫」だとかたわい﹅﹅﹅ない惡洒落に、女逹の腹の皮をらせた。

澤崎に次いで上手なのはお勢であつた。澤崎が女を喜ばせるよりも、もつと格別な意味で、お勢は男を喜ばせた。初對面の佐々木だらうが、宗一だらうが、お勢にかゝると散々に鼻毛を拔かれ、容赦なく引ツ搔かれるやら、組み付かれるやら、打たれるやらした。佐々木は勝負の最中、幾度となく自分の額に觸れたお勢の前髮の柔かさを忘れることが出來なかつた。

「お勢ちやんは一高の生徒にハンカチを拾はせても、骨牌は拾はせないんだね。」

宗一がかう云ふと、お勢は息せき﹅﹅切つて、

「そんなに口惜しがらなくたつて好い事よ。骨牌に負けたもんだから、口でかたきを取るなんて、男の癖に卑怯だわ。」

「さうだわ〳〵。一高の生徒の癖に卑怯だわ。」

と、後から澤崎が交ぜつ返した。

斯界の兩雄―――澤崎とお勢とが敵味方に別れた時の騒擾、喧囂亂脈は、實に当日の壯觀であつた。殆ど全體の勝敗が其の一騎打ちに依つて決するかの如く、互に祕術を盡し、お轉婆を極めたが、たま〳〵此の兩人が同じ組のくじに中ると、敵方は滅茶々々に蹂躙されるので、

「これぢや、とても抗はないわ、澤崎さんとお勢ちやんとは、始終敵味方でなけりや面白くないわ。」

こんな動議をお靜が提出した。さうして、最後の試合迄、二人は別れ別れになつた。結局七度の戰ひのうち、五度は澤崎の勝利に歸した。

四時頃になると、みんな休憩して、御馳走のすしを頰張りながら、一しきり賑やかに戲談じやうだんを云ひ合つた。

「お勢ちやんどうでした。やつぱり男のかたには抗はないと見えますね。」

かう云つて、さつきの上さんも出て來て席に加はつた。

「えゝ、お勢ちやんなんぞ、まるで相手にならないんです。弱い人ばかりいぢめて居て、僕にはちつとも向つて來ないんですからなあ。」

澤崎は肩を搖す振つて、兩手に拵へた握り拳を、鼻の先へ高々と重ねた。

「あら、小母さん噓よ。澤崎さんそんなに威張るなら、二人で勝負をするから、此處へ出ていらつしやい。あなたなんぞに負けるもんですか。」

「おほゝゝゝまあお勢ちやん、急がないでもゆつくり讐をお取んなさいな。今お靜にさう云つて、かるたの間に福引をやらせますから。―――どうぞ皆さん、どんな物があたつても、苦情を仰しやらずに、持つて歸つて下さいましよ。」

上さんは用意して置いた福引のかんじより﹅﹅﹅﹅﹅を娘へ渡して、

「さあ、めい〳〵で、一本づゝお引き下さい。」

と云つた。

淺草觀音の鳩が豆の皿へ群る樣に、多勢はお靜の手元へ集まつて、我れがちに鬮を引いた。紙の端には、一つ一つなぞの文句が認めてあつた。佐々木の引いたのは「小松内大臣」、宗一のは「間男まをとこ」と云ふのであつた。

「間男と云ふのは怪しからんね、一體此れは何です。」

「あら、宗ちやんが間男を引いたんですか。―――そりやいゝものよ。家のお父さんが考へた謎なの。」

お靜はかう云つて、魚を燒く二重の金網を出した。

「宗ちやん其れが解りますか。『兩方から燒く』と云ふんですつて。」

上さんが說明すると、みんな手を叩いて可笑しがつた。

佐々木の「小松内大臣」は「苦諫」と云ふ謎で、蜜柑が三つ來た。澤崎は「往きは二人で歸りは一人」といふのに中つて、往復はがきを貰つた。其の外澤庵を持たされたり、草箒木を擔がせられたり、大分迷惑したらしい連中があつた。謎の秀逸はお勢の引いた「晝は消えつゝ物をこそ思へ」で、電燈の球が來たのには、奇警にして上品な思ひつきに、誰も彼も感服した。

「電氣の球はよかつたな。それは誰が考へたんです。」

と、宗一はお靜に訊いた。

「うまいでせう。あたしが考へたのよ。」

「『晝は消えつゝ物をこそ思へ』は、全く頭が好うござんしたね。何しろ今日中の傑作に違ひありません。」

佐々木までが、かう云つて賞め讚へた。

福引が濟むと、再び戰闘が開始された。丁度五時から七時頃の間に五六囘勝負をやつたが、お勢はとう〳〵澤崎に抗はないで、

「あたし口惜しいわね。―――澤崎さん近いうちに家でかるた會をやるから、是非入らつしやいな。きつと負かして上げるから。」

などゝ云つた。

「もう大分遲くなりましたから、徐々そろ〳〵失禮しませんか。」と、誰かゞ云ひ出した時、

「まあお待ちなさい。皆さんの運動が激しいから、お腹が減つたでせうと思つて。」

と、上さんは氣を利かして、尾張屋のそばを振舞つた。みんな暖かい鴨南蠻と玉子とぢ﹅﹅とを默つて貪るやうにして喰べた。

「佐々木さん、どうぞ此れからも宗ちやんと一緖に遊びに入らしつて下さいな。別にお構ひ申しませんが、内は此の通り呑氣なんですから。」

お靜にかう云はれると、佐々木は實直らしく膝頭へ兩手を衝いて、

「えゝ、また今度、骨牌會があつたら是非伺ひます。」

と、馬へ乘つて居るやうに、臀を彈ませて云つた。

「かるたの時でなくつても、いゝぢやありませんか。近いうちに弟が退院して戾つて參りますと、お話相手も出來ますから。」

「弟と云ふのはお靜さんより一つ年下で、高等商業へ行つて居るんだよ。」

傍から宗一が說明して、

「良ちやんは、まだ退院が出來ないんですか。」

「もう四五日かゝるんですツて、良作も體が弱くつて困つちまひますよ。宗ちやんの樣に丈夫になるといゝんですがね。」

お靜は火箸の上へ白く柔かな兩手を重ね、何か知ら長話の端緖いとぐちでも語り出すやうに、落ち着いて、しみ〴〵と喋舌り始めた。淋しい冬の夜寒を、二人共成らう事なら、此の女を相手に今少し時を過ごしたく思つたが、お勢も澤崎も歸つて行くので、據んどころなく、名殘を惜みながら席を立つた。

「佐々木君、もう遲いから、僕の家へ泊らないか。」

戶外へ出ると、宗一は云つた。晝間の風が未だ止まないで、街鐵がいてつの敷石の上に渦を卷く砂煙が、電柱のあかり﹅﹅﹅にぼんやりと照されて居る。電車が時々、クオーと悲鳴を擧げるやうにきしみながら通る。

「彼處の娘は喜多村にそつくりですね。聲まで似て居るぢやありませんか。」

佐々木は鎧橋を渡る時、不意にこんな事を云つた。

「誰もさう云ふよ、當人も喜多村が贔屓なんだ。―――君はお氣に入つたのかい。」

「えゝ、ちよいと好ござんすね。」

「春子第二世にしたらどうだい。」

「さあ。」

と、佐々木は考へて、

「春子のてつを踏んぢや困りますから、一番出直して、靜子第一世にしませうか。さつきの『ひるは消えつゝ』の謎なんか見ると、頭もなか〳〵いゝやうぢやありませんか。」

「惚れた弱味で、謎にまで感心しなくつてもいゝよ。惚れられると德をするんだなあ。」

と、宗一は笑つた。

濱町の家へ着くと、丁度時計が九時を打つた。「まだ風呂を拔かずにあるから、女中の入らないうちに」と進められて、二人は早速湯に漬かつた。

「佐々木さん、此處に宗一のフランネルの洗濯したのがありますから、お上りになつたら、浴衣代りにお召し下さいまし。」

母は湯殿へ出て、二人の體質を並べて見ながら、

「ほんとに佐々木さんは好いかつぷく﹅﹅﹅﹅でいらつしやること、宗一なんぞはとても抗ひませんねえ。」

と云つた。宗一も佐々木の裸體を見るのは久し振で、筋肉が瘤のやうに隆起して居る逞しい骨組や、丈夫さうな赤黑い皮膚の上に、石鹼しやぼんの白泡が快い對照をなして流れて行くのを、羨ましく思つた。

「かうやつて居ると、何だか田舎の溫泉へでも來て居るやうな氣がしますね。」

佐々木は湯船の緣へ頭を載せて、湯氣の籠つた天井を眺めながら、伸び伸びと空嘯いた。

風呂から上つて、二階の書齋へ行くと、いつの間にか蒲團が二つ敷いてあつた。互に顏を向け合つて、夜具を被つたものの、容易に眠られない。―――階下で時々、宗兵衞の咳拂ひの音が聞える外、淺川の家に比べると、ズツト陰氣な、死んだやうな座敷の沈默が、妙に眼を冴え冴えとさせた。

「どうだい、僕の家は靜かだらう。―――こんな晚にひとりで居ると、淋しくつて淋しくつて、とても寢られやしない。」

かう云つて、宗一は蒲團の中で、肩を顫はせた。雨戶の外では、こがらしがひゆうひゆうと鳴つて居た。

「僕はこんな所が大好きですよ。君だつて、ラブ、アツフエイアがなければ、此處の方が却つて勉强出來る筈です。寮に居ると下らない附き合ひに時間を浪費して、いけませんね。旅行でも、讀書でも、僕は Solitude が一番いゝと思ひます。」

「しかし、昨今の僕は Solitude に堪へられないよ。」

「そりやあゝ云ふ事情があつては、無理もありません。―――どうなりました小田原の方は。」

「やつぱり破談になつた。暮に母親から散々意見されて、一と先づ斷念しろとまで云はれた。」

「それから、君はマーザーに何と答へたんです。」

「一應反抗したけれども、到底根本から考へが一致しないんだから、好い加減な氣休めを云つて置いた。徒に心配させたつて、仕樣がないもの。」

「此れから先、どうする積りなんです。」

「どうしていゝか、全く迷つて居るよ。美代子さへ約束を守つて居てくれゝば、結局は大丈夫だと信じて、それ程悲觀もしないがね。」

「かう云ふ問題は、だら〳〵長くなると、仕事が出來ないで困りますから、成るたけ手取早く片附ける方が宜ござんす………。」

佐々木はだん〳〵眠さうな聲を出して、やがて、

「もう寢ませうかね。」

と云つて、ぐるりと壁の方を向いた。

十一

歌舞伎座の春の狂言が、十四日に蓋を開けたので、初日から五日目の日曜日に、野村は中島と杉浦を誘ひ、西の花道に近い平土間へ陣取つて居た。遲れ馳せに宗一の駈け着けた頃は、旣に一番目の大詰の幕が下りて、天井、棧敷、一面の穹窿きゆうりゆうに電燈が燦然と閃き、劇場の内部は、さながら灯の雨が降るやうに光の海を現じて居た。

「おい、其處に居るのか。」

と、聲をかけながら、土間のしきりを傳はつて行く時、宗一には二三人の友逹の顏が眞赤に燃えて輝いて見えた。

「おう、君遲かつたなう。もう一番目が濟んで了つたぞ。」

野村は半分席を讓つて、自分の橫に宗一を坐らせ、頻りとオペラ、グラスを八方へ廻して居る。「市村羽左衞門」「片岡仁左衞門」などゝ記した緞子どんす綸子りんずの引幕が舞臺の一方から一方へ、何枚も何枚もする〳〵と展いては縮まつて行く。

「鬼と呼ばれし高力かうりきも、淚の味を覺えて御座る。………」

杉浦は唇をへの字なりに歪めて、仁左衞門の口眞似をして、

「今の幕は、仁左衞門が好かつたぜエ。もう少し早く來ると、面白かつたのになあ。」

「家光になつたのは、ありや何と云ふ役者かい。」

と、相變らず中島は說明を求めて居る。

「アレは八百藏さ。―――どうも家光らしい機略が見えないで、八百藏としては出來の惡かつた方だよ。」

「しかし、立派な聲ぢやなう。輪廓もなか〳〵整つとるぢやないか。」

中島は杉浦の批評が腑に落ちないで、内々八百藏に感心したらしい口吻である。

出方が五六人東の花道に立つて、

「○○御連中樣、御手を拜借!」

と、怒鳴つたかと思ふと、向う側のうづら、高土間、新高にひたかの觀客の間から、バタ〳〵と拍手が起つて、無數の掌が胡蝶のやうに飜る。

杉浦は伸び上つて、劃りの板に腰かけながら、

「ありや、みんな藝者だぜ。山口が居たら喜ぶだらうなあ。」

「左の隅から三番目の柱の處に居るのは、素敵な別嬪ぢやなう。」

かう云つて、指差した中島の手の先には、粹な年增が旦那らしい紳士と、何處かの女將おかみらしい老婆を捉へて、睦ましさうに話をして居る。金煙管と指輪の寶石が、遠くまでピカ〳〵光つて居る。

「うむ、ありや大變な美人だな。萬龍や靜枝なんぞが繪ハガキになつて、をんなが繪ハガキにならないのは怪しからんね。第一、あんな醜男ぶをとこを旦那に持つて居るのが不都合だよ。われ〳〵有爲いうゐの靑年が、あゝ云ふ男に、おめ〳〵美人を取られて居る法はないぜ。」

杉浦は仰山に地團太を踏んで、

「實際殘念至極だ。………仕方がないから、僕は寮へ歸つたら、鐵亞鈴てつあれいを二三百振つてやるんだ。」

と肩を聳やかした。

「橘、彼處に佐々木が來とるやうだぜ。」

野村はオペラ、グラスをヂツと西の棧敷に据ゑて云つた。

「佐々木が來て居る?」

「ほら、彼處に居るぢやないか。」

杉浦は目敏めざとく氣が付いて、

「………うむ、さうだ〳〵。佐々木に違ひない。而も此れがまた別嬪を連れて來て居るぜ。―――佐々木の傍に居る若い男は、何だらう。一高の奴ぢやないやうだが。」

「あれは高等商業の淺川と云ふ男だよ。僕の友逹で此の間佐々木に紹介したばかりなんだ。」

宗一も漸く見付け出して、二階を仰いだが、先では一向知らないらしい。佐々木と淺川が腕組をして坐つて居る前に、姉のお靜は母親と並んで手すりにもたれ、平土間に波打つ群衆の頭の上を、餘念もなく眺めて居る。丁度一階と二階の境目の提灯に電燈がともつ﹅﹅﹅てお靜の額を眞下からあり〳〵﹅﹅﹅﹅と照らし、うつとり﹅﹅﹅﹅と無心に一方を視詰めた儘人形のやうに靜止して居る目鼻立を、極めて鮮明に浮き出させて居る。殊に、ピクリとも動かさぬ瞳の色の潤澤、魅力の强さ、宗一は今日程お靜の眼つきを美しいと思つたことはなかつた。

の女は何者だい。まさか藝者ぢやあるまいな。」

と、杉浦が訊く。

「あの男の姉さんなんだ。」

「へーえ、佐々木もナカ〳〵隅へ置けないね。紹介してくれた君を出し拔いて、芝居へ來るなんか、の男に不似合な藝當をやつたもんだ。」

「僕にもちつと意外だね。たしか七草の晚に淺川の内で骨牌會があつて、其の時先生を連れて行つたんだが、あれから二三度も僕と一緖に出かけたかな。何にしても紹介してから、まだ十日位にしかならないんだ。」

「春子で手を燒いた代りに、あのシスターをどうかしようと云ふ氣が知らん。」

「そんな深い計畫はなからうが、多少惚れて居るらしいね。先生はふだん臆病の癖に、ラブしたとなると、隨分大膽な眞似をするよ。」

「あの器量では、佐々木の惚れるのも無理はないなう。」

豪傑の中島も、半分は惚れたやうなことを云ふ。

「新派の喜多村にそつくり﹅﹅﹅﹅な顏をしとるぜ。何處ぞ女學校でも遣つたのかい。」

と、今度は野村が尋ねる。

「虎の門を出たんだ。學校が同じだから美代子もよく知つて居るよ。」

「うん、さうかな。美代ちやんとは何方が別嬪かの。」

「美代子なんか、とても比べ物にならない。淺川の一家は、あの弟にしても、母親にしても、みんな眉目びもく秀麗だからな。」

「そりやさうだらう、あの位の女が、無闇とわれ〳〵仲間の細君になられちや困るからな。佐々木だつて、結局失敗するに極まつて居るから安心し給へ。―――第一、ソクラテスのやうな面を提げて居て、あの女に好かれる筈はないよ。」

杉浦はこんな毒舌を振つて居る。

宗一は直ぐ二階へ行つて、佐々木を驚かさうとしたが、もう拍子木が鳴つて居るので、次ぎの時間を待つ事にした。源平布引瀧げんぺいぬのびきのたきの中幕が開くと、揚げ幕の向うから羽左衞門の實盛、猿之助の瀨尾せのをが、頭の上の花道を步いて來る。丁度實盛の穿いて居る白足袋が、三人の眼の前へ止まつた時、

「羽左衞門は痩せて居るなあ。」

と、突然杉浦が、足許から大きな聲を出した。

しかし、羽左衞門の實盛は濟まし込んで鼻を尖らし、七三しちさんあたりで、

「瀨尾殿。」

「實盛殿。」

と、互に挨拶しつゝ、本舞臺の九郞助の住家へと練つて行く。

芝居は追ひ追ひ面白くなる。九郞助の家にかくまはれた義仲の奧方あふひ御前ごぜん產氣さんけづいたり、生れたのが女の片腕であつたり、其れは怪しいと云つて瀨尾がいきまく﹅﹅﹅﹅やら、實盛が源氏に志を寄せて辯解するやら、なかなか賑やかである。

口角泡を飛ばすと云ふのは、瀨尾の事だらう。―――「かひなを生んだ、ためしはねエわイ。」

などゝ、赤面あかつらをむき出して喰つて掛かる。

實盛の方は落ち着き拂つて、いにしへを說き、今を論じ、强引きやういん該博がいはく、見たところ大變な智慧者らしい。

「團十郞は、實盛と云ふ人物の腹が解らないで、此の芝居をやらなかつたさうだ。」

宗一は低い調子で、ちよい﹅﹅﹅〳〵通を振り撒いて居る。

「さうかなあ、考へると滑稽だからなあ。」と、中島が相槌を打つ。

「團十郞は馬鹿だよ。こんな芝居に腹も糞もないぢやないか。」

杉浦はかう云つて一喝して了ふ。

とう〳〵瀨尾は追拂はれて、九藏の葵御前がしづ〳〵と二重へ現れる。

實盛九郞助、一同畏まつて平伏して居る。

「あの葵御前には悲觀したな、ひどくまづい面ぢやないか。九藏たる者、羽左衞門や松助に土下座どげざをされて、少し面喰つて居るぜ。………」

杉浦の批評には、端の人まで耳を傾けて、クス〳〵笑つて居る。

勇ましい物語が濟んで、瀨尾が切腹するまでは靜かであつたが、それから又一しきり、杉浦のお喋舌が始まる。

「何と云つても、近來での實盛だつたよ。うまいもんだ。―――實盛の腹はどうでもいゝとして、馬鹿を見たのは瀨尾君だね。白髮を着けるやら、顏を赤く塗るやら、大騷ぎをして跳び出して來ながら、愚にもつかない屁理窟でギヤフンと參つたり、藪の中へ隱れ込んで眼の中へごみを入れたり、娘の死骸を足蹴あしげにしたり、揚句の果が腹を切つて、ウン〳〵云つてふん﹅﹅反り返るのは御苦勞だなあ。恐ろしく奮鬪的生活をやつたもんだね。」

カチンと木のかしらを打つて、舞臺は旣に幕切れの見え﹅﹅に移つた。きらびやかな緞帳どんちやうが、天井からゆる〳〵下り始めて、活人畫くわつじんぐわの天地を一寸二寸と縮めて行く。馬に跨がつて扇を擴げた實盛の頭が先づ隱れる。次いで手塚の太郞の首が隱れる。其の傍に蹲踞つて居る九郞助も順々に隱されて、間の拔けた馬の足ばかりが見える。やがて緞帳の裾がフツト、ライトの光炎に燃えながらばつたりと地に着いて了ふ。

宗一は花道を駈け拔けて、梯子段を上つたが、二階の廊下でばつたりとお靜に出遇つた。後から弟の良作も佐々木もやつて來た。

「おや。」

とお靜はにつこりして、

「宗ちやん何時入らつしやつたの、誰かお連れがおあんなさるの。」

「學校の友逹と一緖なんです。尤も僕は用事があつて、たツた今、中幕の前に駈け付けたんです。」

かう云つて、宗一はお靜と佐々木を等分に眺めた。

「妙な所で遇ひましたねえ。今朝淺川君の前を通つて、ちよいとお寄りしたら誘はれちまつてね。」

佐々木は、何處やら烟つたいやうな顏をして、言譯がましい事を云つた。ソハ〳〵した、嬉しさうな素振が餘所目にも著しかつた。

「お勢ちやんが急に來られなくなつたので、御迷惑だつたでせうが、佐々木君を引張り込んだのです。お母親ふくろも居ますから彼方へ入らつしやいませんか。」

良作も佐々木の尾に附いて辯解した。

「えゝ有難う。小母さんのいらつしやる事も知つて居ますよ。君逹の場所は、丁度僕等の頭の上なんです。―――お靜ちやん實盛は如何いかゞでした。御贔屓の羽左衞門が大分振ひますね。」

「あたしなんか、贔屓の引倒しですけれど、今のは可なり見堪みごたへがしましたよ。―――佐々木さんは羽左衞門より高麗藏の方がお好きなんですつて。」

「いえ、さう云ふ譯ぢやありませんが………。」

と、佐々木は頭を搔きながら、

「何だか、羽左衞門は冷酷で、暖みがないから近寄り難いやうに思はれるんです。しかし猿之助の瀨尾は、逹者で、熱があつて好ござんしたねえ。」

「うん、まあ惡かないが、ちつと騷々し過ぎるよ。」

「いつか歌六の瀨尾を見ましたが、あゝ云ふ役は角々が極まつて、猿之助よりズツとうまござんす。『腹にかひながあるからは』なんぞ、澤瀉屋おもだかやは無雜作にすら〳〵と云つちまひましたね。」

良作は團十郞時代から歌舞伎を缺かさないだけあつて、黑人くろうとじみた事を云ふ。

「そりやの方が好かつたわ。今度は團藏がる筈だつたのに、途中で猿之助に變つたんですツて。―――團藏がやると、藝が枯れて居るから、面白かつたでせう。」

佐々木は門外漢の如く、自分の劇評に一顧の價値も與へられないで、憮然ぶぜんとして三人の傍らに立つた。

又幕が開いた。今度は仁左衞門の「鰻谷うなぎだに」である。宗一は此の一と幕だけ、淺川の席へ割り込んで見物したが、お靜も良作も、母親も、一心に舞臺へ注目して、殆んど言葉を交はす機會を與へなかつた。

「あゝ、くだびれたこと。」

幕が閉まると、お靜はガツカリしたやうに、腰を擡げて、

「誰か一緖に運動場へ行きませんか、―――佐々木さんも、宗ちやんも入らつしやらなくツて?」

と云つた。

「僕は、もう直き下へ行きますから………」

宗一が辭退すると、佐々木も氣の進まない面持で、

「僕はお留守居をして居りますから、皆さん入らしツたら宜いでせう。」

かう云つて、苦しさうに笑つた。

「佐々木君、杉浦や中島が來て居るから、ちツと下へも話しに來給へ。」

淺川の家族が出て行つた後で、宗一は置いてき堀﹅﹅﹅﹅﹅にされた佐々木を顧みて云つた。

「えゝ有り難う。中島君は運動家の癖に、やつぱり芝居を見るんですか。」

佐々木の顏には、知らず識らず陰鬱な表情が浮かんで居たが、それでも彼は、努めてあいそ﹅﹅﹅好く口を利かうとして居るらしい。

「芝居を見ると云つても、大して解りやしないんだよ。中島の事だから、子供が錦繪を見るぐらゐな無邪氣な考へで、面白がつて居るんだらう。別に藝術がどうのと云ふ譯ぢやないのさ。」

「どうせ僕だつてさうですよ。かう云ふ都會の藝術は、こまかいところはとても田舎者に解りませんね。僕は芝居へ來る度每に、何となく妙な壓迫を感じます。」

「しかし、今日はお靜さんが居るから、さうでもないらしいぜ。―――それぢや又後程。」

宗一はから〳〵と高笑ひを殘して其處を立つた。廊下の外の眞黑な夜空には、星がきら〳〵輝いて居た。

「鰻谷」の次ぎに、花やかな所作事しよさごとがあつて、打ち出しは十時過ぎになつた。

宗一は別れしなにもう一度、淺川へ挨拶をしようとしたが、混雜に紛れて、とう〳〵捜し出せなかつた。杉浦を始め四人の連中は、銀座のそば屋で一と休みして寮へ戾つた。

其の晚、遲くまで佐々木は寮へ歸らなかつた。淺川に進められて、植木店うゑきだなに泊つたと云ふ事を、宗一は明くる日の朝になつて知つた。

四五日過ぎてから、朶寮一番の宗一の自修室へ、川崎の消印のある長い手紙が舞ひ込んで來た。「六郷河畔にて、佐々木生」と認めてある封筒を開くと、眞書しんかきのやうな筆で、原稿用紙へ細字が二三枚も書きつらねてある。

歌舞伎座以來、御無沙汰をいたしました。今夜用事があつて歸省したのを好機會に、あなたへ手紙を差し上げます。いづれ明日はお目にかゝるでせうが、手紙の方が思ふ事を十分に述べられると存じますから、御面倒でも讀んで下さい。

先日、歌舞伎座で私はあなたに飛んだ失禮をしました。あなたは勿論、其れに氣が付いていらしツたでせう。さうして、或は私を淺ましい人間だと御考へになつたかも知れません。あゝ、私はどうして、斯うも了見の狹い、片意地な男でせう。どうして、斯うも我が儘な、固陋な人間なんでせう。歸つて來て、自分でつく〴〵呆れて了ひました。

而もあの晚あなたに對しては、あれ程冷淡な態度を示しながら、植木屋へ戾つて來ると、もうすつかり上機嫌になつて、お靜さんや良作君と、夜の二時頃まで元氣よく話をしました。其の樣子をあなたが御覽になつたら、さぞ勝手な奴と思つたでせう。私はまるで子供のやうな、取り止めのない感情を持つて居るんです。―――子供のやうなと云へば、いかにも無邪氣に聞えますが、其の實決して無邪氣ではありませんでした。内々私は、殆んど口にす可からざる卑しい動機から、あなたを恨んで居たのでした。それが殘念でなりません。恥かしくてなりません。

有體ありてい懺悔ざんげしたら、あなたは御立腹なさるよりも、寧ろお笑ひなさるでせう。實に Trivial な事なんです。お話しするだに極りの惡い位、些細な事なんです。あの日、私逹の連中が突然廊下で、あなたと出遇つて、俳優の噂をしました時、私は言ひ知れぬ淋しさと哀れさを感じました。私の如き田舎者と、あなたやお靜さんや良作君のやうな都會人との間には、永劫に一致し難い Gap があるのだと感じました。

こゝまで申し上げたら、すでにお解りになるでせう。羽左衞門に對する好惡かうを、猿之助に對する批評、私の云ふ事は、あなた方に一つとして顧みられませんでした。私は一時、全く會話の埒外に捨て去られて了ひました。無論其れは、あなた方が故意になすつた所行でない事は存じて居ります。けれども私は何となく、お靜さんを自分の掌中からあなたに奪はれたやうに感じました。私は實に Jealousy! の强い人間ではありませんか。

Jealousy! Jealousy! ―――私はもうお靜さんに對して Jealousy を持つまでになつて了ひました。お靜さんは私を正直な朴訥な、田舎者として愛してくれるやうです。芝居へ誘つたり、家へ泊めたりして吳れるのが、通り一遍の深切のやうには考へられません。しかし萬一、私がこんなにかたくなな、エゴイスチツクな男だと知れたら、お靜さんはどう思ふでせう。幸に此の間の事は感づかれないで濟みましたけれど………。

戀をする男の精神は多忙です。いとしい女の一つの趣味、一つの好惡に就いてさへ、こんなに氣を揉まなければなりません。だが私には果して、羽左衞門が好きになれるでせうか。都會人のリフアインされた生活が理解されるでせうか。

「佐々木さん、あなたは正直で着實な末賴もしい靑年です。あなたは愛すべき靑年です。しかし都會の女にはあなたを戀する事が出來ません。あなたの妻になる事は出來ません。」―――お靜さんにかう云はれたら、何としませう。あゝ私はお靜さんを知つてから、始めて自分の田舎者である事を後悔しました。都會に生れなかつた自分の運命を悲しみました。

ほんたうにお靜さんは、私をどう思つて居るでせう。あの氣高い美しい額の蔭、頭の奧の片隅にでも、私の事を考へて居て下さるでせうか。私は江戶兒の美點とも云ふ可き公明淡泊なお靜さんの性質を、寧ろ齒痒く感じて居ます。お靜さんは男に向つて冷酷だと思へる程淡泊でテキパキして居ます。いろ〳〵の冗談を云つたり、いたはつてくれたりするのが、溫情と云ふよりも、サツパリしたキビ〳〵した氣象から出て居るらしく推察されます。私ばかりか、誰に對しても寸毫すんがうの城壁を設けず、嬌羞けうしうを帶びずに話をされます。都會の女はあゝもサバケた、さうしてつめたい者でせうか。私には其れが飽き足らなくてなりません。

お靜さんは私を愛して下さらずとも、私がお靜さんを愛して居る事だけ、心付いてくれますまいか。たツた一と言「佐々木はあなたを戀ひ慕つて居ります。」とお靜さんの耳へ入れて置きたいのが、今の私の願ひです。それで可哀さうだと思つて下されば私の氣が晴れます。

あゝ怪しくもしきはえにしなるかな。つい先頃は春子を慕つて居た私、春子を捨てゝ了つた私、それがあなたに紹介されて、僅か半月も立たぬのに、此れ程の人を思ひ詰めるやうにならうとは。

今時分、植木店の家では暖かい電燈の下に姉弟が睦まじく膝を擦り寄せて話をし合つて居るでせう。なつかしき淺川一家の人々よ。

Shizu-chan よ。―――私は淋しい片田舎に、うす暗いランプのしんを便りとして手紙を書いて居るのです。明日は朝早く戾ります。戀しい戀しい東京の地へ戾ります。

橘君、どうぞ此の物狂はしい手紙を笑止と思つて讀んで下さい。せめて私の切なる戀を、あなただけでも知つて居て下さい。

文句は此處でぽつんと終つて居る。戀をせずに一日も生きて居られぬ人間は、佐々木ばかりではない。「あゝ私もかうして居られないのだ。」と宗一は思つた。さうして、手紙を机に投げて、椅子に反り返りながら長大息をした。美代子、美代子、…………美代子はどうして居るだらう。

十二

其の年の春、四月頃の事である。ちやうど第三學期が初まつた時分の或る日の夕方、山口が森川町の下宿の二階でぼんやりと寢そべつて居ると、そこへぶらりと橘が這入つて來た。

「やあ失敬、大分待たせた。どうだいこれから出かけるかい。」

「うん、出かけてもえゝがな。」

と云つて、山口は依然として寢ころんだまゝ、大儀さうに相手の顏をぢろぢろと上眼うはめで眺めて居る。

「なんだい、いやに元氣がないぢやないか。今夜の約束を忘れちまつたのかい。」

「いや、忘れたと云ふ譯でもないんぢやがな、わしはあの約束をえゝ加減の事ぢやと思つて居たんぢやが、いよいよ君が、ほんたうに決心したんだとすると、少々私も驚いて居る次第ぢや。」

「どうしてさ、何も驚かなくたつていゝぢやないか。」

さう云つて、橘は少し極り惡さうににやにや﹅﹅﹅﹅笑つた。

「しかし後になつて、私が誘惑したなんて云はれて恨まれたりすると困るからなあ。それさへなければ案内してもえゝんぢやけれど、………」

「ふん、柄にもない心配をするぢやないか。いつもそはそは﹅﹅﹅﹅して遊びに行く癖に、そんなに臀を落ち着けなくてもよささうなものだ。」

「そりやわし一人なら喜んで行くがな、何しろ君は今までに經驗がないんぢやから、さう云ふ人をわしが始めて連れて行くのは、何となく氣が咎めるんぢや。また杉浦にでも知れると、彼奴あいついよ〳〵私を攻擊するぢやらう。」

「いや大丈夫だ。杉浦には知れないやうにそうつと﹅﹅﹅﹅出て來たんだから、分りつこはないんだよ。ねえ、だから早く行かうぢやないか。此の間の晚はあんなに僕を勸めて置きながら、いざとなつて澁るなんて甚だ怪しからんぜ。」

「それ、それを云はれるからわしは迷惑すると云ふんぢや。私が勸めたから遊びに行つたと云はれるならほんたうに御免蒙るぜ。私はたゞ一時の興味に驅られてあんな話をしたんぢやからな。」

「あゝさうか、さう云つたのは僕が惡かつた。成る程此の間の話は君が冗談に云つたんだらう。しかし其の冗談に挑發されて、今夜は僕の方から斯うして誘ひに來たんだから、まあ行つてくれてもいゝぢやないか。」

橘には山口が自分の足許を見拔いていやにゆつくり構へて居るのがよく分つた。それでも彼は見す見す相手の策略に乘つて、思ふ壺へ陷つてまでも連れて行つて貰ひたかつた。

「まあ君がそれ程に云ふのなら行つてもえゝ。だが、一體金をいくら持つて居るんぢや。」

「實は此處に二十兩ばかりあるんだ。此れだけあればいゝだらう。」

「ほゝう、大分持つとるんぢやなう。」

山口はにやりとして、

「二十圓あれば何處へでも行ける。だが其の金を全部使はんとえゝだらう。此の間も云うたやうに二人で五兩あつたら大丈夫ぢや。そんなに君に使はせやせん。」

「僕も要心に持つて來たんだから、十圓位は殘して置きたいんだ。兎に角直ぐに支度をして出かける事にしようぢやないか。誰かやつて來ると面倒だから。」

「よろしい、それでは先づ淺草の方へでも行つて見るか。………わしは大分ひげが生えたからちよつと剃つて行きたいもんぢや。ちよつとの間ぢや、待つて居てくれ給へ。」

山口はいそ〳〵と立ち上つて、机の抽出しから西洋剃刀と、剝げちよろの手鏡とを出して、血色の惡い、煤ぼけたやうなほつぺたへ石鹼の泡をぬる〳〵と塗つた。さうしてところどころにきずを拵へたり長い毛を殘したりして、大急ぎで髯を剃つてしまふと、今度は押入を開けて、柳行李の蓋を開いたまゝ何か考へ込んで居る。

「はて困つたもんぢやなあ、餘所行きの着物は此の銘仙きりしかないんぢやが、何しろ親父のお古でもつておまけに此の間臀を拔いてしまつたんでなあ。」

斯う云つて繩のやうにれたまゝ突込んであるものを、ぞろ〳〵と引き出して高く差し上げて見せた。成る程臀の所が一尺程綻びて綿がだらしなく飛び出して居る。

「どうしような、君はひどく洒落とるやうぢやなあ。」

と云つて山口は、節絲の綿入れに新しい小倉の袴を穿いた橘の服裝を羨ましさうに見上げ見下ろした。

「なんだい、君なんぞは年中出かける癖に今更めかす必要もないぢやないか。」

「ところがさうでないて、此れでもやつぱりいゝなりをして行かんと大分持て方が違ふんぢや。よし〳〵、臀が破れて居ても、袴を穿けば分りやせんわ。」

それから山口は足袋が汚いの下駄がよごれて居るのと云つて、それ等の品を本郷通りで買つて貰ふ約束をしたが、表へ出ると彼はだん〳〵圖に乘つてハンケチや鳥打帽子までも買はせた。しまひには「あの蜜柑を五錢ばかり買つてくれりや。」などと云つて八百屋の前で立ち止つたりした。

二人が雷門で電車を下りた時分にはもう夜になつて居た。

「どうだな橘さん、君は一體吉原がいゝのかそれとも千束町へ行きたいのか、どつちなんぢや。それを極めて置かんといろ〳〵時間の都合があるんぢや。」

と、山口は向島の花見客が雜踏して居る中店を步きながら、何か眞面目な相談でもするやうに仔細らしく橘の耳に囁いた。

「さうだな、僕は何だか吉原へ行きたくないな。千束町にしようぢやないか。」

「なぜ吉原は嫌なんぢや。銘仙屋の女なんぞより花魁おいらんの方がいくら氣持がいゝか知れやせんがな。大店へ行けば座敷も綺麗だし、寢道具なんぞそりや素晴しいもんだぜ。」

「けれども僕は何だか花魁と云ふものが嫌ひなんだよ。あの毒々しいゴテゴテの衣裳を着けて居るのからして氣に喰はない。まだ銘仙屋の女の方が、幾分かすつきりして居るやうに思はれるんだ。」

「はゝそりやあ君が無經驗だからさう思ふんぢや。私のやうに遊びの經驗を積んでみると、結局花魁が一番いゝと云ふことになる。君が嫌ならば孰方でも構やせんけれど。」

「いや、いくら經驗を積んだつて、僕にはとても花魁は好きになれさうもない。あんなグロテスクな風つきをした、化物みたやうなものは、てんで僕の趣味には合はないんだ。僕はあつさりとした意氣な女がいゝんだ。」

「ふん、分つた。さうすると何ぢやな、君はつまり藝者のやうなのを要求しとるんぢやな。」

「うん、まあさうなんだ。」

「意氣といふ點から言へば、そりや銘仙屋の女の方が幾分か藝者に近いかも知れん。しかし、ことわつて置くが、藝者買をするやうなつもりで居ると大きにあてが外れるから、後になつて愚痴をこぼしても私や責任を持たんぜ。千束町に萬龍や靜枝のやうなのが居ると思つたら、とんだ間違ひぢやからなあ。」

「僕だつてまさかさうは思つて居ないよ。でもまあ、君の働きでなるたけ藝者らしい奴を紹介して貰ひたいのさ。さうして泊るところも、銘仙屋の二階でなしに、どこか待合じみたところへ連れて行つて貰へないだらうか。」

「そこは話しやうでどうにもなる。あゝいふ女を連れて行くには、また其の方の專門の待合があるのぢや。さうすると、何も言はずに私に十兩預けて置いたらどうぢや。今から行くのはちよつと時間が早や過ぎるから、少しその邊をうろついて、十時頃になつたら出掛けるとしよう。十兩あれば、明日の朝まで遊んでも私はおつりを殘して見せる。うまく行けば朝飯に牛肉ぐらゐは食べられるかも知れんぜ。」

山口は仁王門の蔭のところで橘から十圓札を受取りながら、

「これを何とかして崩さんではいかんな。こんな大きな札を見せたら、きつとぼられる﹅﹅﹅﹅に極つとるからな。隙つぶしにおでんでも食うて一杯飮むとしようぢやないか。」

かう言つて、こんもりした公園の櫻の木の間を、十二階の方へ辿つて行つた。

朝からどんよりとしてゐた雨曇りの空が、今にも降り出しさうに曇つて、妙に生暖い、風のない晚であつた。向うの空を焦して居る活動寫眞のイルミネーシヨンや、樂隊の響や、緞帳芝居のはやしの音や、池の汀に並んで居る露店の灯影や、そんなものが橘には今夜に限つて夢のやうに感ぜられた。子供の時分から幾度となく見馴れて居る公園の夜景が、今夜始めて連れて來られた遠い國の、何か不思議な珍しくも恐しいちまたのやうであつた。自分の左右を往き違ふ群衆さへも、自分とはひどくかけ離れた世界の人種のやうに見えた。橘はふと、兩親や乳母の手に牽かれて、花屋敷の猛獸だの奧山の見世物だのを見に來た時分の、二十年も前の頑是ぐわんぜない己れの姿を想ひ出した。あのころの幼い彼は、淺草に連れて來られるのが何よりも嬉しくて、中店の通りから觀音樣のお堂を眺めると、譯もなく小さな胸が浮き立つて來て小躍りしたいやうな心地になつたものであるが、今夜の彼もちやうど同じやうな心地がする。しかしあの時の無邪氣な喜びと、今の自分の喜びとは、何といふ相違であらう。二十年後の今になつて、この公園が斯うして自分を待構へて居ようとは、その頃の彼には思ひもよらぬ事であつた。父や母は未だに彼をその頃の子供のやうに考へて居るのに、彼はいつの間にか、親から貰つた學費を誤魔化して遊びに來るやうになつてしまつた。それはいゝとしても、今夜の樣子を美代子が知つたならば何と云ふだらう。彼女との仲を割かれた結果だと云ふ事が、何の言ひ譯になるであらう。自分が斯うなる代りに、美代子がこんな眞似をしたら、自分はどんな氣持がするだらう。

「自分はこれを機會に墮落してしまふのではないだらうか。自分はもう、山口と選ぶ所がなくなつて居やしないか。」

さう反省して見ても、それが橘には何の感情をも齎らさなかつた。彼は全身に麻醉藥をかけて物凄い手術を受けて居る人間のやうに自分を思つた。自分が今、忌まはしい穢らはしい境涯になづみつゝあるのだと云ふことが、まるで他人の身の上のやうに空々しく感ぜられた。たゞ何處までも淺ましい惡友のなすがまゝに、快く彼の傀儡くわいらいとなつて、お坊ちやん扱ひにされて居たかつた。ならうことならば、いつそ目隱しをしてぐんぐんと手を引張つて行つて貰ひたかつた。

「橘さん、君は何を食ふんぢや。私はがんもどきと燒豆腐にしよう。それから其の月見芋を取つてくれや。」

………氣が付いて見ると、橘はおでん屋の暖簾を潜つて、ぐつ〳〵湯氣の立つた煮込みの鍋を前にしながら、山口と肩を並べて居た。

「それからねえさん、正宗一本、お燗を熱くしてな。―――大いに景氣をつけてこれからいゝ處へ繰り込むんぢや。だが何ぢやな、この姐さんのやうな別嬪が云ふ事を聽いてくれゝば、私は何處へも行きたうないぜ。」

山口は一二杯飮んだかと思ふと、直ぐに眞赤な顏になつて他愛もなく女中にからかつて居る。もう先のやうな勿體ぶつた素振りや仔細らしい態度は、うに飛んで行つてしまつたらしい。

「君は女さへ見れば誰をつかまへても口說くどくんだな。あの女の何處がいゝんだい。」

おでんやの店を出ると、橘は苦々しさうに云つた。

「いゝ女ぢやないか君、色が白くつてぽつちやり﹅﹅﹅﹅﹅として居て、私やあゝ云ふ愛嬌のある女が好きぢや。君は全體標準が高過ぎていかんわい。淺草へ女を買ひに來るのに、新橋の一流の待合へ行くやうな了簡で居るからいかんのぢや。あのおでん屋の姐さんのやうなのが惡かつたら、吉原でも千束町でもとても滿足できやせん。だからさつきも斷つて置いたんぢや。ほんたうに君、案内するのもえゝが、後になつて、恨んだりしちや困るぜエ。そのくらゐならわしは御免を蒙りたいもんぢや。」

山口はわざと仰山に怫然ふつぜんとして、往來のまん中で立ち止つた。

「まあさ、何もそんなに怒るには及ばないさ。一切君に任してあるのだから、さう手數をかけなくてもいゝぢやないか。」

「いや、手數をかけると云ふ譯ぢやないが、あんまり君が贅澤を云ふからぢや。私は一昨日をとゝひ吉原へ行つたばかりだから、今夜はそんなに氣が進んで居らんのぢや。今日は君に賴まれたから據んどころなく出て來たんぢや。全く君の犠牲になつとるやうなものぢや。」

「あはゝゝゝ、犠牲はちつと大袈裟だな。さう恩に着せないでもよからうぜ。」

「冗談ぢやない。ほんたうの話ぢやがな。なんぼわし道樂者だうらくものだつて、始めての人を誘惑するのは實際いやな役廻りぢやからなあ。」

「始めてと云へば、僕にさう云ふ經驗が無いのだと云ふことを、さきの女に君から斷つてくれ給へね。さうでないと僕は何だか工合ぐあひが惡いからな。」

「いゝよ、心配せんでも大丈夫だよ。そんなことに氣を揉むなんて、君も可愛い男ぢやなあ。」

こんな事を語り合ひながら、二人は一二時間も公園の彼方此方をさまよつて、バアへ這入つたり立ち見をしたりして隙を潰した。やがて十時頃になつてから、「さあそろ〳〵行つてみよう。」と云ひながら、山口はずん〳〵先に立つて、十二階の下の細い新路しんみちへ踏み込んで、兩側にぎつしりと並んだ、明るい家の軒下をぐるぐると經廻へめぐつて行つた。かういふ狹い區域に、どうしてこれほど澤山な横丁があるかと驚かれるくらゐ、其處は蜂の巢のやうに交錯した路地と路地とが、目まぐるしく折れ曲つて居た。さうして其の家々は、れもれも同じやうにマチ箱のやうな粗末な普請ふしんで、軒燈を掲げた格子戶と曇り硝子の障子を嵌めた窓とが附いて居た。その曇り硝子の内には、白い顏の女共が眼ばかり見えるやうにして、障子の隙間すきまから表を覗いて居る。橘は同じ路地を何度も往つたり來たりしたやうに思つたが、實はみんな異つた橫町であつた。橫町から橫町へ拔ける間に、また第三の橫町があつて、それへ這入ると其處にも同じやうな世界が擴がつて居た。もしもあらゆる橫町の底を究めようとすれば、それが細く長く無限に續いて居て、東京市の外へまでも延びてゐるらしかつた。もう公園から餘程遠いところへきたやうな氣がして、ふと立ち止つて空を仰ぐと、不思議にも未だ十二階が頭の上に聳えてゐる。それが橘にはいよ〳〵夢のやうに思はれるのであつた。

「どうぢやな橘さん、この女はちよいと可愛い顏をしとるが、此所こゝいらではお氣に召さんかな。これは千束町の萬龍といふ仇名あだながあるんぢや。」

さう云つて山口は、とある窓の前で臆面おくめんもなく說明したり、どうかすると馴染の女の家と見えて、

「よう今晚は、先日は失禮。」

などと挨拶をして通つたりする。

「まあ大體この邊のところで我慢せんけりや仕方がないが、この他にまだ、活動寫眞館の裏の方にもうちつと上等なうちがあるから、ひとつ彼所あすこへ行つてみよう。」

かう云つて步き出した山口の跡に附いて、家と家との庇合ひあはひのやうな間をひよいと潜つたかと思ふと、再び橘は元の公園の池の前に連れて來られて居た。

「いゝかな橘さん、今度の所は千束町では一流の場所なんぢやから、彼所あすこが氣に入らなかつたらもう駄目だぜ。さうしたら吉原へ行くより他に仕方がないぜ。」

成る程其所は、山口の云ふ通り多少今迄のとは異つて、やゝ道巾の廣い往來に、小綺麗な藝者屋みた二階家が五六軒かたまつて居た。

一時間ばかり過ぎた時分、二人の男は二人の女の跡について、半町ばかりうしろから見え隱れに、夜の更け渡つた公園のいまだに人通りの絕えない町を、わざと交番の前をさけながら、辿つて行つた。先に立つた女逹は、傳法院の前から中店を橫ぎつて、暗い狹い小路の間をうねりながら、時々姿を闇に消したりした。

「待合といふのは全體何處にあるんだらう。」

「もう直き其處そこぢや。きつと花川戶の方にあるんぢや。あゝあ、これでわしもやつと責任を果したわい。」

と山口が云つた。橘はいくらか元氣がよくなつてゐた。

明くる日一日、寮にも敎場にも姿を見せなかつた橘は、晚の九時頃になつて、ぐでんぐでんに醉ひながら山口と一緖に駒込の杉浦の下宿へやつて來た。

見ると、杉浦はたつた一人、頭から蒲團をすつぽり被つて小說を讀んでゐる。

「やあ、君逹は何處へ行つてゐたんだ。昨夜ゆうべから居なかつたぢやないか。」

「うん」

と云つたきり、橘はどしんとあぐら﹅﹅﹅を搔いて坐つた。

「いや大きに失敬した。昨夜ゆうべ川甚へ行つて泊つてしまつたんぢや。君を誘はうと思つたんぢやけれど、生憎見えなかつたもんぢやからなあ。」

さう云つて、山口はから〳〵と笑つた。

「見えない事があるもんか。おれはお前逹を散々捜したのに、何處にも居ないから獨りで呂昇を聽きに行つちまつた。今日になつても歸つて來ないなんて、怪しからん奴だ。未だいくらか殘つて居るだらう。罰金に何か奢らんけりや承知しないぞ。」

「うん奢らう。何でも奢らう。」

「よし、よし、其奴は賛成だ。」

杉浦は蒲團を撥ね起きて、寢間着の上へ袴を穿いた。

十三

拝啓

先日は失禮いたしました。あれから佐々木君に御會ひになりましたか。僕の方へはあれきりさつぱり訪ねて來ません。尤も訪ねて來る譯にも行かないでせうが、僕も内々どうして居るかと心配して居ります。

きつと佐々木君は僕等に對して怒つて居るのでせう。此の間會つた時にも、あの話はどうなつたんだ。まだ姉さんに話してくれないのか。もう二た月にもなるのだから、機會がないと云ふ譯はあるまい。默つて棄てゝ置かれては、半殺しにされて居るやうで落ち着かないで困る。と云つて、例の調子で性急に追究するのです。定めてあなたにも不平を洩らした事だらうと思ひます。

しかし、僕の方でも決して投げやりにしてあるのではないのです。佐々木君にはまだ姉に話さないと云つて居ますが、實はもううに話してあるのです。さうして大體姉の意向も聞いて居るのです。けれども其の意向が佐々木君の爲めに決して芳ばしいものでない以上、それを無造作に返事する譯には行かないぢやありませんか。佐々木君なら家柄と云ひ人物と云ひ、決して僕の方に不足はない。それは僕にしろ母にしろ、皆さう思つて居るのです。正直のところ當人さへ承知なら直ぐに纏まる話なのです。ところが當人の姉が、田舎は嫌だと云ふのですから、どうも仕方がありません。僕からは何とも挨拶のしやうがなく、いつまで經つても、姉に話す機會がないといふ一點張りで、佐々木君に答へる外はありません。僕は事實を吿げるのが辛いので、謎を讀んで貰はうとして居るのです。結婚の話を斷る場合には、さういふ風にするのが當り前ぢやありませんか。東京の人なら、その謎が分らない筈はありませんが、佐々木君にしたつてもいゝ加減に氣が付いてくれてもよささうなものです。嫌なら嫌でハツキリと答へてくれろと、佐々木君は云ひます。ですが、正直に打ち明けたなら、佐々木君のやうな人は、きつとこれきり僕の所へ來なくなるだらうと思ひます。僕はこんな事で友逹を一人なくなすのが嫌ですから、それでいろ〳〵案じて居るのです。

就いては、あなたから何とか佐々木君の誤解を解いて下さる譯には行きますまいか。僕の方の眞意を婉曲に傳へて下すつて、今後同君と僕等との間に、不愉快な感情が殘らないやうにして頂ければ非常に結構です。さうして、成らう事ならば、佐々木君と御一緖に僕の所へ遊びに來て下さるやうに願ひます。どうぞ何分御賴み申します。

かう云ふ淺川の手紙が、或る日橘の許へ屆いたのは、もう花見の時候が過ぎて四月が暮れようとする頃であつた。同時に彼の机の上には、春の休暇に近縣地方へ旅立つて以來、未だに學校へ出て來ない佐々木からも、頻々と繪葉書だの書狀だのが寄せられて居た。

三月二十七日、夜來の豪雨を冐して東京出發。只今無事甲府着。此れより昇仙峽に遊び、鰍澤に出でて富士川の奔湍ほんたんを下るつもり。

ぬばたまの笹子の闇のをたけびに我が世の末を戰き思ふ

委細は後便にゆづる。

と云ふのが第一便である。それから又四五日過ぎて、こんなのが來てゐる。

たとへば我は地に傷ける鳩の、鮮血のしたゝる翼をつて果しもなき天涯てんがいあまがけるが如し。

たゞ息の續く限り、力の許す限り、再び大地に落ちるまでは飛び行かんとこそ思へ。きのふは龍華寺に詣でゝ高山樗牛の墓を訪ひ、唯今三島に着、此れより箱根の舊道を踏破して小田原に出づる豫定に御座候。同地より汽船に投じて伊豆の下田に參り、更に大島に遊ばんかと存じ居り候。

其の明くる日には直ぐ追ひかけて、

箱根本宿もとじゆくより蘆の湖畔に沿うて姥子の湯に參り、大涌谷、地獄谷を經て仙石原に到着、やう〳〵脚絆きやはん草鞋わらぢを脫いで唯今硫黃の溫泉に漬かり申し候。明日あすは乙女峠を登りて富士の裾野を俯瞰ふかんせばやと存じ候。同宿に夫婦連れの旅藝人あり、妻なる女の二十前後なるが、いつの間にか我と懇意になり、いろ〳〵と愛想よく話しかけるも、旅情を慰むること夥し。夫は盲人の淨瑠璃語りなり。

と、書いて來て居る。それから最後の郵便は伊豆の伊東から出したものらしく、原稿用紙へ二三枚ほど細々こま〴〵と認めてあつた。

もはや四月の下旬に相成り、學校もそろ〳〵始まつたらうと思ひますが、私はまだ故郷へも東京へも歸る氣にはなれません。何だかあなた方の顏を見るのが極りが惡いやうな氣がします。折角旅に出て忘れかけた悲しい感情が、東京へ行けば再び想ひ出されはせぬかと、それが恐しさにかうして未だにうろついて居るのです。一月に近い旅行の間に、私はさまざまの事を覺えました。どうにでもなれと云ふやうな心地になつて、通りすがりの宿場々々のなさけを賣る女共に身を任せる事をさへ、厭ひませんでした。―――あゝ、何といふ淺ましい我になつたのでせう。―――いつそこのまゝ旅の空で野たれ死にしてしまつた方がいゝくらゐです。

この手紙で見ると、もう橘の手を煩はすまでもなく、佐々木はすつかり絕望の淵に沈んでゐるらしかつた。さうして墮落と廢頽とが、橘ばかりでなく、佐々木の身の上にも附き纏つて來るやうであつた。

こんな事を考へながら、ぼんやりと寮の中庭を步いてゐると、

「どうぢや橘さん、今夜あたり、また此の間の所へ行かうかな。」

かう云つて、不意に山口がうしろから彼の肩を叩いた。

「今に己逹はみんな山口のやうになつてしまふんだ。失戀した者の運命は誰も彼も同じ事だ。」

ふと、さう思つて、橘は默念もくねんとして相手の顏を視詰めて居た。

Transcriber's Notes

本テキストは昭和三十三年中央公論社刊「谷崎潤一郎全集 第二巻」を定本にした。